2012/5/19更新
南相馬から綾部市に避難した 井上美和子さん
震災1年目を福島で過ごした井上美和子さん、貴さん家族は、南相馬市から綾部市(京都府)に避難している。昨年3月12日、原発建屋爆発のニュースを観て、直ちに避難を決意。子どもの着替えと飲み水・数日分の食料を車に積み込み、自宅を後にした。
空路での避難を試みたものの、福島空港の尋常でないキャンセル待ちの長い列をみて愕然するも、敦賀行きのフェリーが新潟港から出ていたことを思い出し、一転、空路を航路へと切り替え、からがら出航に滑り込む。ひと時の安堵の眠りから覚め外を見て震撼する。船窓に見えた発電所で(後にあの日見えたのは火力だったことを知る)、敦賀にも原発があったことを思い出した瞬間だった。
ところが、たどり着いた避難の地・綾部は、高浜原発から35`。「原発事故の悲惨さを知った今、国内どこへ逃げようと、放射能の影響が及ばない場所などない。これまで電力会社や政府の聖域と化し独壇場だった電力行政の理不尽さを、今まさに、被害実態を経験した私たちが伝えなければ」と語る。(文責・編集部)
美和子…3月12日午後5時頃、地元テレビで流された福島原発の映像の異変を観て、即刻避難を考えました。私は過去、原発敷地内での仕事を経験しており、1号機建屋が骨組みと化したのを目にした瞬間、炉心で重大なことが起こったことを直感しました。
強張った顔でアナウンサーが言葉を繰り返す「何らかの事象」などではなく、大事故が起きたことを疑いませんでした。貴さんに「どうする!?(とりあえず逃げよう、の念を込めて)ねえ!!パパ!?」と決断を迫りました。
貴…自らの工房を抱えての仕事で、「簡単には放棄できない」との思いとの狭間に立たされていましたが、遅れに遅れて記者発表の場に立った枝野官房長官の狼狽を隠しきれていない様子に、いよいよ「これは相当危険なのだ」と思い至りました。
美…スキーウェアを着込ませ、2枚重ねマスクを着けさせた子ども2人を抱え、『息止めてよおっ!!せえのっ!!』自宅玄関から全速力で車に押し込め、水・食料・カセットコンロ・子どもの少しの着替えなどの荷物だけ積み込み、自分たちも乗り込みました。
どこへ逃げるともなく走り出し、津波で東への避難は不可能と思い、雲の動きから西に逃げることを決めました。
しかし、自宅から福島へ続く国道114号線に出たとき、ヘッドライトで埋め尽くされたおびただしい車列を目にし、「やはり大変な事態が起こったのだ」と確信します。この渋滞では、日付が変わっても福島市にもたどり着けないと思い、イチかバチか脇道に進路を採りました。
地震で破壊された山道は、路肩崩れやひび割れ・段差の連続でしたが、二本松を通過、国道4号線に合流し南下、白河・埼玉方面を目指しました。
途中、子どもが不穏な空気を感じ取り、「どこへ行くの? 」と聞いてきます。私たちは、行き先を答えられません。情報から隔絶され、自分たちも、どこへ行くのだろうと、不安と迷いの極限でした。親として子どもの不安を取り去ることも叶わず、情けない気持ちでいっぱいでした。
午後10時前にはいよいよ国道4号線も車が動かなくなり、ガソリンの無駄な消費を避けるため、鏡石町の避難所で夜を明かすことにしました。たまたま福島空港も近かったので、場合によっては空路で伊丹に飛ぶことも視野にいれての決断でした。
鏡石町の役所から紹介されたスポーツ公園の体育館内を見渡すと、約10組弱の家族が床に横になっていました。原発事故の話題はおろか、会話すら聞こえません。
鏡石町は、浜通りとの間に阿武隈山地を挟んだ中通りに位置し、放射能汚染がこの後この辺りにまで広範囲に及ぶことは、この時点で私たちも想像だにしていませんでした。
館内には数台の石油ストーブが設置されていましたが、寒さで寝付けませんでした。つけっぱなしにしてくれていたテレビから流れるニュースで、1号機の原発事故に続き3号機までもが更なる悪化の一途を辿っていることを知り、夜が明けるのを待って福島空港へ向かいます。ところが空港内は臨時便のキャンセル待ちの列までもが延々と続く大混雑で、当日搭乗は不可能かに思えました。
大渋滞の中をガソリンが続くまで車で南下するか、確約のない飛行機のキャンセル待ちを信じて並び続けるのか、迷いながら列に続いていたその時、夫が新潟港から敦賀行きのフェリー便があるのを思い出します。携帯はむろん不通の中、空港の公衆電話から問い合わせると、たまたま当日13日の午後5時に新潟を出港するダイヤで、船室の予約も可能との回答が。
しかし、その時既に時間はギリギリ、新潟までのガソリンもまたギリギリ、加えて一般車両は高速道路に乗れずの状況で、はたして新潟港までたどり着けるのか? 夫と妻の間で激しく冷静に、互いに問い直しに問い直し続け、とうとう決断します。さっき空港カートに積んだ荷物を車に放り戻し、一路新潟港に向けて出発します。
一般車両にガソリンの給油は依然解禁されておらず、ヒヤヒヤしながら車を飛ばしました。ところが小さなガソリンスタンドで、灯油の給油をしてもらっている緊急車両の扱いの地元消防隊員を見かけたので、車を急停止させ横付けしました。
ガソリンの販売を断る給油所の店主に、夫が頭をこすりつけるように頼み込み続けていると、店主は後部座席に座る娘たちをチラリと見やり、「ハイオクでもいいか」と、10gだけながら給油してくれたのです。それでも、ギリギリ足りるかどうか? この時は夫婦2人とも会話もできず、メーターを睨み、祈りながら車を飛ばしました。
会津を過ぎて、高速磐越道の津川インターチェンジから、一般車両の乗り入れが再開されていました。これで時間が味方につきます。新潟に急ぐ私たちの車の対向車線は、自衛隊の緊急車輌が切れ間なく連なって福島・郡山方面へ向かっていました。一方、新潟方面行きを走っているのは、私たち家族の車1台だけ。前も後ろも、ウソみたいに視界が広がっています。
南相馬市・浪江町など浜通りの多くの避難者は、車のガソリンが尽きて会津までたどり着けなかったのでしょうか。福島市なら安全だと止まったのでしょうか。情報と供給から見捨てられた私たちは、そうならざるをえなかったのです。そんな中、私たち家族は、私たち自身の決断で高速道路を走り、更に遠くへと逃げ続けていました。
新潟県に入った途端、携帯に電波が届きました。3本しっかり立っています。焦る中、取り急ぎ「港到着が10分ほど遅れそうだ」とフェリー会社に電話で伝えると、なんとあろうことか「待ちます」と言ってくれるではありませんか。
あまりの親切な反応に感激し、2人涙しつつもしっかり大急ぎで、ガソリンスタンドにも寄り、満タン給油も済ませました。福島県のお隣・新潟県は、ガソリンもコンビニも普段どおり開いている。つい今まで見てきた福島の現状との落差に、にわかには信じがたい心境でいました。
私たちの到着を待っていたフェリーに滑り込み、船室に乗りこむと、ようやく我に返りました。原発の爆発を知ってからちょうど24時間後の今、なぜでしょう、フェリーに乗っています。先のことを思うと不安でたまらなかったものの、原発事故による緊張と不安と不眠で疲れもピークだった私たちは、ひと時の安堵を掴み取り、その晩は日本海上でぐっすり眠ることができました。
朝起きて、船室の窓の外を見ると、そこには一見して発電所と分かる建物と海岸が見えました。必死で逃げていた前日の緊張が甦りました。敦賀原発有する若狭の海だと一瞬で思い出し、ドキッとして夫を見上げると、「ここはまだ爆発してないから、大丈夫」と言われ、それは要するに「ここも爆発の可能性を否定できない原子力発電所」ということでしょ、と。あのとき見開かれた私の両の目は、今の末期的な原子力行政への不安に屈せず、国民一人ひとりが原発の是非を真剣に見つめて考えよう、との思いを持って今につながっています。(次号に続く)
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