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2012/4/20更新

南相馬市から避難福島で迎えた被災1周年

「放射能と暮らす」重さ

南相馬市から綾部市(京都府)に避難している井上美和子さん、貴さん家族は、震災から1年目を福島で過ごした。美和子さんは過去に東電第一原発敷地内で働いた経験がある。事故から1年目の帰省で美和子さんは、「福島に残った同郷人と、県外に避難した私たちとの差異を痛感させられた」という。

昨年3月12日、原発建屋爆発のニュースを観て、井上さんたちはただちに避難を決意したという。原発建屋の爆発をうけ、記者会見に立った枝野の『ただちに』事故の詳細を語り始めない様子に、「これはただごとじゃない」と、貴さんも避難に最終同意。同日の夕方には、数日分の子どもの着替えと飲み水、食料だけを車に積み込み家を後にした。どこまで逃げられるのかもわからぬまま、Eに近づくガソリンメーターを睨みながら彷徨った2日間。子どもから「どこへ行くの?」と聞かれても答えられず、「あの時ほど親として情けなかったことはない」と回想する。井上夫妻が話す避難の経緯は、スペクタクル映画のようだ。

1年目の福島とのギャップ、避難の経緯、そして福井原発から30`という綾部に「避難」している心境に加え、国や原発への怒りを語ってもらった。「『私たちは、国から見捨てられている』との思いは、1年経ってさらに強くなっている」と語る。(文責・編集部)

事故前と同じであろうと必死に生きる友人たち

南相馬から綾部市に避難した 井上美和子さん  

東電社員を夫にもつ福島に残った友人

震災から1年の3月11日は、福島で過ごすことになりました。福島に帰るのは、県外避難以来4度目。父親をはじめ親しい友人にも会いました。今回の帰省は、あらためて事故と、この1年を問い直す機会となりました。

知らず知らず目を背けていたことも含めて、福島に残った同郷人と県外に避難した私たちとの差異を、思い知らされました。

3月10日、新幹線で郡山駅に着いて街へ出た時、見慣れた駅前を目にして、言いしれぬ緊張が走りました。私の知る郡山はそこにはなく、その日は反原発集会や追悼イベントのまっただ中で、そのような中にいきなり降り立ち、心の準備どころではなかったのです。

郡山市内のホテルに着いてすぐ、3歳の子どもを連れた友人とロビーで再会。係に案内され座ったテーブルで、戸惑いの末にお茶を注文。しかし私は、水が出されれば「これ大丈夫かな?」と疑い、運ばれたハーブティも「このお湯はどこの水を使っているのだろうか?」と警戒し、いちいちじーっと見入ってしまうのです。

相反して友人は、3才の娘にコップの水や注文した牛乳を飲ませています。それを見て「これが原発被災地の日常なんだ」と愕然とし、目の前のお茶を飲む覚悟を決めました。

放射能の恐怖を前にすると、「日常を生きる」という当たり前さは、無関心を装いでもしなければ保てないのです。その福島の在りようが、精一杯すぎて痛々しくもありましたが、そうならざるを得ない厳しい現実を理解できました。

彼女たちは、決して知識がないわけでも無関心でもないのです。放射能の話題は一種のタブーとなっており、同時に互いへの配慮を含んでいます。無関心を装っていないとしんどくて日常が成立しないのです。私たちだって「こんな緊張した日常生活が続けられるかどうか、自信はない」と思いました。

夫が東京電力に勤めているその友人は、3才の子どもとともに郡山に避難しています。1週間前、事故対応の仕事から久しぶりに帰宅した夫は、前日また事故対応の現場に戻っていきましたが、子どもが「さみしい」とぐずるのだそうです。

福島で生活し続けていれば、放射能に気をつけて場所や食品は選べても、空気や水までは選択できません。幼い子どもを抱え、不安を抱えながら、「逃げる立場になく、覚悟せざるを得ない」と幼子を抱えて福島に留まる夫婦の心の葛藤は、計り知れないものと察しています。私たちは同じ被災者として、「福島に残る人々と今尚、同じ痛みを共有できている」と思い続けていましたが、そうではなかったのだ、という事実を突きつけられ、落胆しました。

放射能に慣れ無頓着になる自分たち

今回、被災地には5日間滞在(夜は仙台市内に宿泊)したのですが、線量計を肌身離さず警戒していた自分たちが、日を追って放射能に寛容になっていくという現実を知ることとなりました。南相馬の自宅は、今も庭で空間線量1μSvと高く(家の中でも0・5μSv)、飲み水からも放射能が検出されていたため、綾部から飲み水を持参しました。

しかし数日の内に、少し離れた仙台の飲食店ならと、出される水を飲むことに抵抗がなくなっていきました。それというのも、放射能に寛容でなければ、友人たちと一緒のお茶も飲めないし、自然な会話も成り立たないのです。

11日の夜、二本松の仮設住宅に避難している父と共に仙台で食事をしました。

父は海産物が大好物なので、店を探しました。石巻や松島で上がった魚を扱う店がそこらじゅうにあり、事故前ならどこでも良かったのですが、放射能による海洋汚染の懸念から、北海道水揚げを謳った居酒屋にしました。しかし、酒が進むにつれて、恐々と料理を食べるのが面倒になり、しまいには食べたいだけの注文をしていました。

放射能に敏感であるはずの私たちでさえ、数日ですぐに警戒心を保てなくなったのです。福島で日常を送れば、誰だって寛容にならざるを得ないのかもしれない、とある種の無力感を受け止めていました。

仙台でも、東京電力に務める夫をもつ友人と会いました。彼女の夫は、今も事故対応にあたっており、週末しか帰ってきません。彼女は、子どもを放射能から精一杯守りながら、同時に夫の身も案じています。

私は、「世間が言うように『東電だけが悪い』のでなく、この原発事故の本当の責任が国にあるのだということを私たちは知っているから、とご主人に伝えて欲しい」と言いました。うつむき聞いていた彼女はパッと顔を上げ、「その言葉を聞いたら、夫はどれほど慰められるでしょう」と呟きました。

東電社員の素顔 無頓着になる自分たち

夫が東電の社員であることを隠して暮らしている女性は、たくさんいます。私も浪江町出身なので、家族が原発で働いている友人もいます。

私も原発関連企業で働いていたので、福島第1・第2原発で仕事をしました。定期検査で取り替えられた部品全ての番号などを、設計図に反映させて書き替える仕事です。

会社は、原発運転データや観測データを整理・保管する等の仕事も請け負っていました。9割が女子社員で、東電男子社員の嫁探しの宝庫でした(笑)。実際、東電社員との結婚に至った実績も高かったし、コネ入社の噂も高く、転勤で福島に来た東電社員の妻のパートや、東電管理職の娘の就職先としての受け皿になっていたとか、いないとか…。とはいえ、仕事内容は専門性が高く、バリバリ頭のきれる社員も多かった。決まった手順で受注できれば、仕事が途切れることもなく、賞与は年3回あり、羽振りもよかったのです。

そしてあの日、事故が起きました。友人や知人は、みんな事故前と同じであろうと、必死に頑張って生きています。誰と話しても、前向きに生きようという必死さを感じました。私は、現場で働いている人たちの、東電社員の素顔を知っています。テレビに出てくる東電のお偉そうな役員の面々は、尊き彼等とは別の人種なのです。

彼女たちのほとんどが、浪江を含め双葉郡などの地元出身者なので、この放射能汚染が、もはや故郷に戻れないレベルであろうことを、事故当初から覚悟しています。

でも、夫が事故対応の仕事を続けることで職を繋いでいる以上、幼い子どもへの放射能の影響を案じながらも、県外避難も移住もできず、不安とあきらめを覚悟に置き換え、必死で生きようとしています。(次号に続く)

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