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2012/4/18更新
「人民新聞を女性たちで埋め尽くそう」という単純な望みからはじまったこの企画。私が人民新聞に入った当初から考えていた企画であった。
女性の相対的貧困率の増加、骨抜き派遣法改正案の成立、京都大学における非正規労働者に対する「5年条項」等、「女性」差別がまだ現役で、女性の社会的地位は、近年ますます厳しさを増している。しかし社会の「外部」のみならず、私が人民新聞に入った直後から、次々と人民新聞内でジェンダーにまつわる問題が明るみに出た。そして人民新聞のみならず、他の運動団体でもセクシュアル・ハラスメントや性差別は驚くほどに頻発している。それゆえ運動「内部」にある性差別が、この特集の大きなテーマとなった。それは日本のみならず、中東でも「アラブの春」以後、同じことが起きているというから驚く。
また、ウーマンリブの時代から女性の活動を続け、一時はボーイズラブ(やおい)小説を書いていた野村史子さんに、「ベーシックインカム」と「ボーイズラブ」という異色の取合せから浮かび上がる事柄について語っていただいた。さらに。人民新聞ではめったに「音楽評」は掲載されてこなかったが、今回、関西で長年ブルースシンガーとしての活動を続けてきた小林万里子さんのライブ&CDの紹介記事も掲載した。合計8ページの、特大版である。デザインのリニューアルの前に「中身のリニューアル」への試みでもある。ぜひお手にとって読んでいただければ幸いである。(編集部・栗田)
座談会出席者 3月18日
於・人民新聞社 馬野骨介(万年失業家) /トラブル名家、肥後の猛腐。恋愛ニートどころか本当にニート。熊本在住。基本的に非モテでヘタレ。好きな言葉は「やられたら言いふらせ」。 尻子玉 /【友だち】妖怪、魔女。運動内性暴力、セクハラ、性差別の嗅覚はどんな臭いものより嗅ぎつけ、妖怪、魔女仲間とともに駆けつけるのが日課。【得意技】尻子玉を抜いてふぬけにさす刑。【好物】河童巻き。 某S.K /ブルース愛好家・依存症系・だめフェミ・若いころ詩人・ケアワーカー脱落人間・なにわの放浪遊び人。 玉蘭(ワーキングプア) 司会=栗田隆子(人民新聞編集部) |
栗田…今日は「人民新聞を女で占拠する!」特集の一環として、女性の立場の人たちで集まって、ギリギリの思いのたけを話していただこうかと思ってます。
内容としては、まず@改めて「女」というカテゴリーで問題にしたいことは何か?というテーマです。
次に、A私は、関東で東京中心に活動をしてきた人間ですが、大阪に来て、関西ないし「地方」で運動をやるとはどういうことか?を考えたいと思ってます。
そして、B一番怖い話ですが、運動内の性差別やセクシャルハラスメントなどです。多分語りたいことはいっぱいあると思います。
最後に、C人民新聞は今、リニューアルを準備中です。ミニコミでできることなど、ご意見があれば伺いたいと思います。これらを順番にというより、話の中に織り交ぜていければと思います。まず、自己紹介からお願いします。
栗田…まず私からです。フェミニズムやジェンダー的なものに気づいたのは、…ナチュラルボーンフェミって言葉があるらしいのですが、もう物心ついたときからですね(笑)。
だから、「江ノ島女性センター」というところでフェミニズム講座を初めて聞いた時は、「私が怒っていることを考えている人がいて、しかも学問になっている」と知って、やった!!と思いましたね。
そんな私は、現在、人民新聞で活動しています。人民新聞に入社すると伝えたところ、周囲の女友達は、「ええ!? あんなゴリゴリのところに行くの!? 大丈夫?」と心配されたのですが、やはり…大丈夫じゃありませんでした(苦笑)。人民新聞内ジェンダー問題については、別のコーナー(8n)でまとめて紹介したいと思います。
運動内性差別というと、10年近く前、路上生活者支援に少しだけ関わったことがあります。支援に関わった理由は、自分がフリーターになったので、「生きる知恵を路上生活者を経験した先人から学ぼう」としたんです。
だけど、路上生活経験者や支援者からも、言葉や身体を触るセクハラを受けました。周りも気がつかなかったり、気がついても知らぬふりをしてしまう場合もありますが、私の場合は、自分もすぐには気づけなかったんですね。路上生活者支援という一見正しいこと、人権に基づいたことをするような「支援者」という立場の男性が、よもや、自分にそのようなことをするとは、世間知らずの私には想像できませんでした。
その後、路上生活の男性を支援する前に、自分のことをやらなければと、女性の貧困問題や労働問題に関わるようになりました。女性の相対的貧困率の増加、非正規雇用の増加、そして骨抜き派遣法改正が迫っている(3月18日時点)社会の動きの中で、さらに、女性の労働・貧困問題には、常に個人間の「暴力」が存在していると痛感させられました。例えば職場でセクハラやパワハラを受ければ、仕事が続けられなくなるので貧困にも陥るからです。
とはいえ、被害を受ける立場から訴え続けるのは本当に大変なことです。でも、男性側でセーファースペースを主体的に担おうとする人は本当に少数で、むしろ「完璧な安全なんてない」と微妙な逆ギレをされることもあります(苦笑)。
「しんどい側が言い続けないといけないのか?」と思うこともままあります。運動の中でセクハラ対策に取り組もうとしている人はいるけど、その人たちが疲れて立ち去ることも多い現実がある。私自身も、疲れと迷いのなかにいますね。
馬野…京都で大学を卒業した後、2〜3年フリーターをやってましたが、仕事が少なくて、段々、ニートになっていきました。お金もないし、周りの女の子は結婚していく。
2006年の秋頃、「フリーターユニオンふくおか」が立ち上がり、その頃に北九州に引っ越しました。が、お金も尽きたし、実家のある熊本でニートやフリーターの社会運動をできないかと思いました。ひきこもってもできるような活動ということで、年金などの問題に対応できるように「肥後コミューン」を立ち上げました。「肥後コミューン」を解消した後、「熊本労動生存組合 KUMASO」を立ち上げました。KUMASOは下請け労働者、ひきこもり、ニート、メンヘラー(注・うつや統合失調症などの精神病者)、障がい者の集まる組合で、最大の目標は「生存すること」でした。
ところが、去年の福岡のメーデー後の交流会で、とある労組の幹部と別の労組の組合員から、セクハラ、モラハラを受けました。この2人に対して、「まず謝って欲しい」 と手紙を出したところ、無視されたので、公に謝罪要求を出したところ、今度は人権や日の丸・君が代のことで活動している人から2次被害を受けました。
このことをメーリングリストで公にしたら、全国から「私の友人も同じ目にあいました」とか「私も同じ目にあっ た」という多くの人からの声が集まりました。それで、社会運動内でのハラスメントや性暴力の問題は、自分だけの問題でない、と強く思いました。KUMASOは解散したのですが、今は、社会運動内でのハラスメントや性暴力のこと、ニートのことをテーマにしたいと思ってます。
尻子玉…高校生の時に、部落問題研究部に入りました。ジェンダーや性差別についても、女性顧問の先生を通じて、この頃出会いました。
京都の大学に進学し、沖縄のことを研究する某セクトに入りました(笑)。女性だけの小さな集まりでしたが、とても熱心な人たちでした。イラク反戦を訴える企画やデモをし、生活のためのアルバイトに明け暮れた学生時代でした。
07年頃から野宿者支援にも関わるのですが、当事者も支援者も性差別、セクハラ、性暴力にまみれていました。野宿者問題は訴えても、性差別などの問題は後回しにし、取り上げない、見えていないのです。関わり始めた当初から問題を感じていました。
社会の縮図のような構造の中で、現場では「女は女」なのでした。今でもよく「運動の中では性暴力はないもの」とされています。しかし、とにかくどこでも職場でも運動内でも、いつもセクハラ、性被害を受けてきました。
また、ニートという言葉が出回った04年は、ちょうど進路を考える大学4年でした。自分自身は「子ども期」のことをずっと考えてたこともあって、自分自身の問題意識とニートは結びつきました。
でも、生まれ始めた各地のフリーター系の労組や運動には、あまりいい印象を持てませんでした。女性の置かれてる状況や背景についての視点が、やっぱり感じられなかったからです。それどころか、昔の団塊世代の労働運動のやり方と問題をそのまま引き継いでしまっているのではないかと思います。
その中で唯一、骨介さんとは交流していました。KUMASO立ち上げは、本当にうれしくて、遠距離ながら応援していました。これなら私も関われると感じたユニオンでした。
玉蘭…大学卒業後は、福祉施設で働いていましたが、他の女性職員が利用者から鼻を殴られて折られました。私も殴られたり、突き飛ばされたり、火傷を負わされたりと生傷が絶えず、暴力を日々受けました。前職場の労災で負傷していた箇所をさらに傷め、通院しながら働いていました。最初、某ユニオンに労災の相談をしたら、組合費が安いとい う理由で別の某フリーター系労組を紹介されました。
ただし、これから言うことは、下手をしたら私が地域で運動できなくなるようなことです。狭い地域なので、いろいろな運動団体がトップでつながっているからです。
紹介されたその労組の執行委員は、私が勤めていた施設のトップと活動上、利害関係にありました。なので、その執行委員からは団交の担当を断られ、違う執行委員を紹介されました。
担当になった人は、障がい者運動をやっている人だったのですが、私は激痛に耐え通院治療しながら通勤し続け、四面楚歌の中で労災を職場に認めさせ、安全に働けるように団交を進めようと思って労働相談に乗ってもらっているのに、担当の執行委員は「(障がいゆえに分からないでやっているものを)僕はそれを暴力とは呼びません」と言ったのです。
この発言には、問題が3つありました。第1に、そんなことをフリーターV労組の執行委員に労働相談中に言われる筋合いは全くない。第2に、その利用者は暴力として認識していた。第3に、暴力を受けた側が暴力を受けたと思えば、それは暴力ではないのか。
さらに、その執行委員は、争議中にもかかわらず無断で、今後の争議方法といった極めて慎重を期すべき内容を、全組合員が加入するメーリングリストに勝手に流しました。労働相談の守秘義務を守らなかったのです。ただでさえ肉体面で激痛を抱えているのに加えて、精神的苦痛を受けました。いったい誰の、何のためのフリーター系労組か? この労組への信用を失わざるを得ない事件でした。
また、その労組が財政難に陥り、運動圏で名の知れた人に財政支援の呼びかけ人になってもらうことになりました。呼びかけ人候補をリストアップすると、なぜか男性ばかりだったので、「ジェンダーバランスが悪いんやないか」と指摘したところ、女性を入れることが決まりました。
しかし次の会議では、前回の決定事項がなかったことにされ、再び男性候補者だけに戻っていました。なので、再度「男の人ばかりではないか」と伝えたら、ある執行委員が「なら、この人がいいんじゃないか」と、その場で思いつきのように数名「女性」の名前を挙げ「(でもこの人た ちは)オバサンだから(笑)」と発言したんです。会議参加者の中にはジェンダー研究者もいたのですが、異議申し立ての声もなかった。
もうその労組には頼れないので、団交ではなく個別交渉するほか途がなくなりました。一発で交渉を終結させる覚悟で、本を買って自分で勉強し、友人や労基署や女性労働相談や労災専門機関に相談するなどして個別交渉し、要求はすべて通りました。仕事を続けながらでしたが、職場では四面楚歌。通院治療もあって、本当に疲れました。
そのとき思ったのは、同じ「フリーター」であっても、労組の執行委員が男性でかつ超高学歴でインテリ左翼運動圏だと、@利用者が女性職員を狙って暴力を振るうような危険を伴う肉体労働者で、しかもシングル・非正規・女性労働者の生存の深刻さには気づかない。A出勤すればするほど労災にあうけど、肉体労働力を売るほかない女性非正規労働者にとって、「フリーター系労組」は、全く役に立たなかったということです。
出勤すれば暴力を受け患部が悪化するので、有給を使い果たしていた状態でしたが、労災認定が不透明な状況なので、民間の傷害保険や所得保障保険を含め、あらゆる社会保障制度も視野に入るはずです。しかし、その労組は詳しくなく、それ以前に、執行委員が守秘義務すら守らないので、相談もできないのです。
しかし、そのような本当に必要な問題提起を始めると、地域の施設ではどこも雇ってもらえなくなる。労組と職場が運動上の利害関係で繋がっているので、個人情報がダダ漏れで「トラブルメーカー」とみなされ、職を奪われる上に、運動圏からも排除されかねず、多大な精神的苦痛を受けました。
栗田…むしろ、女性の運動の場合は、「地域を超えざるを得ない側面がある」と痛切に思いますね。
玉蘭…(フェミニズムやジェンダーといった考えに触れるきっかけとして)美術をやっていた20歳ごろ、同じアトリエの造形作家の友人が、自分に対してレズビアン宣言をしたんですね。その友人が、オールナイトのある非営利カフェに誘ってくれたんです。そのカフェは、某パフォーマンス・アーティスト集団のメンバーや、その他いろいろな人が来て、多種多様な人々が共存していた場所でした。ある近代建築家の歴史的洋館で、本当に燃えている暖炉の火を囲んで談話するような空間で、当時は多国籍の人々が100人くらい集まっていた。当時の私はフリーター(もしくはパートタイム・アーティスト)でしたが、あまりに居心地が良くて、2年間ほど通ってたんですね。
これに関連して、女性手帳プロジェクトが始まった。これは、あるレズビアンカップルがドイツの女性手帳を参考に作り始めたもので、ワークショップ形式で労働や性など身近なテーマを語り合った「女」たちのナマの呟きが随所に掲載された「おしゃべりする手帳」です。巻末には困ったときの相談先リストが掲載された便利な手帳で、ずっと愛用してましたが、このプロジェクトも数年前に終わりました。当時、HIVに対する偏見を助長させる厚生省に対して、自分たちでHIVと共に生きるためのポスターを新たに提示していったり、関連クラブイベントも同時に開催されていた。
関係者によると、身近な人がHIVに感染しても、当時は何一つ確かな情報はなく、インターネットもないので、とにかく話したいことを話し合わないといけなかったし、人と会う必要もあったことから、活動拠点となる家を借りたり、ヘテロ(※ヘテロセクシュアルの略。異性愛者)とゲイと左翼とアーティストとウーマンリブが出会うホームパーティも意識的に行っていた、と。そのように、元来猥雑で一括不可能であるはずの「社会」が、そうでないことに絶望を覚えたときの寄り場と結節点というものが複数あった時代でした。
昔のことを話しても仕方がないけれど、90年代に問題提起したことと、00年前半から生まれた若年層の問題とは、ものすごい断絶があると感じたんですね。例えばGID(性同一性障がい)の問題が出てきたのですが、90年代で到達していたLGBT(IA)(※レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー【割り当てられた性とは違う性自認を持つこと】・インターセクシュアル【性分化疾患】・Aセクシュアル【無性愛:他者に対して恒常的に恋愛感情や性的欲求を抱かない】)の問題設定の仕方が違うと感じました。
また、労働問題や貧困問題にしても、昔から芸術家は食えない職業ですが、パートタイム・アーティストで、アルバイトで何とか生活していました。ストリッパーになるのが流行っていて、ストリッパーになった人もいました。
でも当時は、今のように労働や貧困を前面に語るよりは、まず作品をきっかけに身近な人と生・性・死を自分の言葉で語り合い、そして振り出しの People に立ち戻り、不分明なところから互いが手探りし合う可能性に賭けていたところがあったと思います。
今の貧困問題や労働問題の問題提起の仕方は、90年代とものすごい断絶があると感じています。しかも90年代がそれだけ「余裕」があったからではなくて、収入面では現在と大差はない。
栗田…私や玉蘭さんだと、フェミニズムやジェンダー的なものに気づくきっかけは、性の多様性を尊重する価値観が当たり前にある居場所に出会えたといったポジティブな感じですが、より若い世代だと、むしろ暴力的な出来事がきっかけでフェミニズムやジェンダーの視点に気づかざるを得なかった、必要に迫られた、という印象を受けます。
それこそ男女共同参画センターが増えていても、フェミニズムやジェンダーの視点によって、自分が解放されると感じられる「居場所」が減りつつあるのかもしれない。
馬野…むしろその断絶を、ある九州の男性の活動家は喜んでましたね。
栗田…私も90年代の雰囲気は覚えてますが、労働のことを前面に出した語り方は、90年代では「もっさい」と感じられていたと思う。私自身が「女のフリーター」問題を語り始めた時、自分の語り口がベタになったと感じました。「なりふり構わず」みたいな(苦笑)。
「女だからといって一つに括れないだろう」という問題意識を、私は90年代に色濃く感じてました。
例えば、90年代前半に、韓国の慰安婦にさせられた人自身が声を上げ出したのですが、従軍慰安婦の問題にしても、日本人の女性と朝鮮・韓国人の女性とでは当然位相が違いますよね。「女」としてひと括りにできない、という緊張感がありました。
その緊張感は常に持っていないといけないと思いつつ、しかし2000年代で自分の労働問題について話をする段になって、まずは「女」という言葉が口についてきた。
パート労働や臨時職員の問題など60年、70年代位から提起されてきた問題が、いまだに解決されないままに、さらに未婚でかつ非正規労働に従事した私のような人間がぐっと増えた。さらに派遣法が今日に至るまでどんどん改悪されていった、という流れを整理したいです。
某S・K…私だけえらく世代が違うやん(笑)。
まず、最初にデモに参加したのは高校のときで、狭山10万人集会(※63年5月に埼玉県狭山市で発生した、高校生の少女を被害者とする強盗強姦殺人事件の被疑者として部落出身の男性が逮捕された。部落出身ゆえの冤罪事件として、部落解放運動の象徴となった)に参加しました。
その後、M大学に入学して、「部落解放研究会」に入ったんです。フェミニズムについて言えば、私には2歳と4歳上の兄がいて、彼らがもっていた「青鞜」を読んでました。あとうちは、母が婦人民主クラブなんです。
一同…(フェミニズムの)サラブレッドじゃないですか(笑)。
某S・K…解放研のなかでは、既に組織内矛盾がありました。「中国派」と「ソ連派」の対立があって。ソ連派の学生組織に所属していたんですが、ここの幹部が、学生をオルグするときにセクハラしてましたね。新歓コンパのときに、友人を勧誘して、性的なことをしたあとに、「なかったことにせえ」と言ったんです。
そこからは抜けて、公務員になった後、一人暮らしを始めたんですが、職場でもセクハラがバンバンありましたね。それこそ、セクハラ上司の「子どもの面倒を見ろ」という命令を断ったら無視されるとか。
その後、公務員もやめました。39歳の時、事実婚だったパートナーが亡くなり、現在24才と22才の2人の子どもがいて、下の子は現在、統合失調症で家にいます。
ともかく私自身は、生活に追われていました。
80年代は反戦運動に関わって、90年代は「しんぐるまざぁずふぉーらむ」に関わっていった。仕事としては、子どもが3歳の頃、自然食品を売る仕事をしてました。その時も、「パン売るときくらい、化粧せえや」って言う男がいましたね。
その後、介護労働でグループホームに勤め、夜勤でも働いていたんですが、仕事がきつくて、「このまま居ったら死ぬ」と思って辞めたんです。
3・11のあと、「とにかくやりたいことやろう」と思って、今度はバーのバイトを始めたんです。「水商売くらいやらなきゃ、えらそうに物言えない」みたいな(笑)。
でも誰も来なくて、暗いところで一人しか店番がいないでポツーンといるとねえ…そこでバーは辞めたんです。有り金を全部はたいて今は八百屋をやり始めたところです。
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