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2012/3/3(土)更新
人民新聞2月5日号では、東京都江東区による、竪川河川敷公園での野宿者排除を目的とした公園のフェンス封鎖強行について取り上げた。それ以後の2月8日、江東区は行政代執行という名目で小屋を撤去し、住民の追い出しを強行した。たった1軒の小屋のために、100人以上の警察官、ガードマン、江東区職員が動員されたのだ。
また、墨田区堀切の荒川河川敷では、代執行手続きすらないまま工事を名目に、テントを破壊する暴挙が国土交通省によって行われている。
堅川や荒川での暴挙に抗議、およびそこに住む人々を支援するために「竪川・荒川の仲間と連帯する関西有志」(以下「関西有志」と表記)が集まり、現地を訪れている。2月18日現在の、堅川および荒川の状況について、西成市民館にて「竪川・荒川関西報告会」が行われた。現地で撮影された動画や写真を用いながら、竪川に住んでいる当事者とともに、関西有志のメンバーが代執行前後の状況について報告されたものをまとめた。(文責・編集部)
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まず江東区は、荒川河川敷を「自然再生工事」という名目で湿地帯にし、テントを張れなくしようとしています。竪川河川敷公園では、有料のカヌーカヤック場とフットサル場を作りましたが、どれだけ利用があるかわかりません。「スカイツリー建設」を理由に、野宿者を排除しようと、建設業者も追い出しに参加しています。荒川河川敷と竪川河川敷公園は、自転車で30分ほどの距離ですが、住民同士が協力し合って、排除と闘っています。
大阪の長居公園や靭公園、大阪城公園で野宿者排除があった時に集った仲間や、その後のデモ等で出会った仲間です。以前から、ソフトボール大会等で、東京・名古屋・大阪のつながりがあるのですが、竪川現地にいる人が少ないので、いろいろな人に呼びかけて支援活動を進めたいという話になりました。
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竪川河川敷公園は主に、工区が3つに分かれています。A工区は、堅川から報告会に来ていただいたKさんたちが住んでます。B工区は現在工事中。C工区は現在40人位が住んでいます。そのC工区に突如、2月7日の行政代執行の前日に、小屋が建てられました。これは、行政代執行で排除したAさんに対し、代わりに住むように江東区が建てた「代替小屋」ですが、住居としてはもちろん、物置小屋としても使える代物ではありません。区役所は、「対処したというアリバイ」のために小屋を建てたのです。
区役所に行った際に、「2月9日に話し合いをする」と話がありました。しかし、話し合い直前の2月8日に、いきなり行政代執行が行われました。小屋は解体され、住んでいたAさんは、血圧が200まであがり、救急車で運ばれ、病院に強制入院させられました。区の職員や警察は救急車に乗り込みましたが、我々は救急車への同乗も許されず、面会に行ったときは、もう既にAさんは退院していました。行方が分からずに探していたところ、髪を切られ、ヒゲも剃られたAさんが、雨の中うずくまっているのを、長年住んでいる仲間が発見しました。現在Aさんは、仲間たちとA工区に住んでいます。
竪川テント村 住人インタビュー 小屋を守ってなかまと暮らしたい K・Mさん(61才)は、竪川テント村で暮らし始めて19年。現在の主な稼ぎは、アルミ缶の回収だ。6年前からの公園改修工事を名目にした野宿者追い出しに、ねばり強く交渉を重ね、テントを守ってきた。来阪し、支援を訴えたKさんに、テント暮らしに至った経緯や、生活の様子を聞いた。(文責・編集部) 倒産で失業 38才まで、新聞販売店で働いていました。住み込みの新聞配達です。1995年に新聞販売店がつぶれてしまい、失業。仕事を探していたら、友達の伝手で「浅草にある解体屋に来てくれ」と紹介されて、働き始めました。 でも、景気がだんだん悪くなって仕事も減り、朝早くから働いて残業しても残業代をくれるわけでもなく、給料も5000円まで下げられたので、去年の9月に辞めました。自分が動ける時にアルミ缶やダンボールを集めて回る方が金にもなるし、気を遣わなくてすむから、今は回収で飯食ってます。 野宿排除の手法 竪川に住み始めたのは93年なので、今年で19年になります。新聞販売店が倒産したあと、公園のベンチで寝ていたのですが、冬が近づいて寒くなってきたので、解体屋で働いた金でベニヤを買って、1畳くらいの小さな小屋を建てました。会社へは、竪川河川敷公園から自転車で通ってました。 その頃は、この辺だけでも45軒くらいの小屋が建っていました。河川敷全体なら150軒位あったと思いますが、公園の工事が始まって、生活保護を受けた人もいるし、どこかへ移転した人もいて、今は60軒まで減っています。 東京都が「ホームレスの自立を支援する」として始めた《3000円アパート事業》に応じて出ていった人もたくさんいたけど、結局、仕事を見つけられずに、公園に戻ってきています。だけど、戻ってきたって今は、ガードマンが夜中であろうが早朝であろうが、小屋を揺さ振って、「出て行け」と、しつこく嫌がらせをするから、新しい小屋を建てるのは無理です。 現地に来て欲しい テント村には今、9人が住んでいます。夏になると高校生たちが、小屋に花火を打ち込んできたり、襲撃もあるので、仲間は、なるべく近くに住むようになっています。私は、3回小屋を焼かれました。 竪川テント村には、腕のいい職人がたくさんいるから、支援者用のテントも建てて、10人位までなら支援者が寝られるようになっています。色んなアイデアも出してもらって、闘い続けたいと思っています。ぜひ現地に来て下さい。 |
行政代執行後、「水辺と緑の課」の荒木課長が、「明日の話し合いはキャンセルする」と留守電にメッセージを入れていました。翌9日に区役所に出向いたところ、話し合いは一切なく、役所の外に放り出され、弾圧(1名不当逮捕)が起きました。
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「多目的広場」にフェンスが張られ、公園全体も封鎖されたため、水場も普通に使えなくなりました。フェンスに少しだけ隙間があり、そこを出入りして生活していましたが、その後、公園に荒木課長がやってきて、その隙間も番線で封じました。「俺ら、死ぬじゃないか」と抗議したところ、「それなら、俺たちが用意したところに行けばいい」と暴言を吐き、撤去を指示する「指示書」を貼りました。…
歩道の脇には植え込みがあり、小屋を建てられないようになっています。関西でもどこでも、皆、なるべく邪魔にならない歩道脇などにテントを建てています。植え込みがなければ、歩道脇にテントを建てるのですが、それができない状態です。
アルミ缶や新聞集めだけで生活している人や、山谷の日雇いの輪番制の仕事をしている人もいます。稼げる仲間は、それ以外の仲間に差し入れを持ってくることもあります。最近は「竪川カフェ」も開いています。
2月8日に強制的に排除されたAさんやここに住む人たちに対して、江東区がホームページや区報で伝える、「(野宿者は)危ないし、怖いし、不安だ」というレッテルは間違っています。何故、排除が起きるのか。行政の指示書が貼られることで、野宿者への襲撃が増加します。本来は、野宿の人たちが暮らしながら、他の江東区の住民たちと一緒にやっていけるはずです。一緒に住めるということを今後どう伝えていくかが課題です。
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【追記】報告会の後、2月24日に3回目の指示書が貼られました。撤去の期限は3月1日。前回の行政代執行は3回目の指示書の撤去期限の後に行われました。3月2日以降、新たな行政代執行の可能性があります。 (その後の経過は 山谷ブログ-野宿者・失業者運動報告 を見て下さい。)