(南相馬市小池仮設住宅)黒沢正幸さん
黒沢正幸さんには、3月末南相馬市の避難所を訪れた際インタビューさせていただいた。父親と妹を津波で亡くし、 残った家族が再会したのは、避難所である中学校の体育館だったという。原発建屋爆発で緊急避難指示が出た際も、黒沢さん家族は、体育館に残った。父親と妹の行方が不明だったからだ。
避難所で3カ月過ごし、2人の死亡が確認されたこともあって、6月5日、母親と叔母と共に仮設住宅に移った。正幸さんは、「立ち入り禁止地区になっている自宅の片づけをして、亡くなった2人の骨を墓に納めて、はじめて次のステップに移れる」と語った。(文責・山田)
▲黒沢よしこさんと津波 |
──仕事はどうされますか?
黒沢…化学メーカーの東京本社から、東京か埼玉工場で職場復帰してはどうか?という話はありますが、断っています。母親と叔母を残して、東京に行くわけにもいきませんし、一旦向こうに行ってしまえば、こちらに戻ることは難しいでしょう。
30歳代くらいまでなら、新たな生活をつくっていくいくつかの選択肢があるでしょうが、この歳になると限られます。約1年程度の休業補償はあるので、来年3月までは、ここに居るでしょう。
原発廃炉まで10年以上かかるでしょうから、こんな生活が続くことは覚悟しています。ただし、移住を希望する人に対しては、最大限の補償と支援があるべきです。
しかし、それが担保されていない現状で、どうすればいいのか?私にも分かりません。
(以下略.全文は1424号を入手ください。購読申込・問合せはこちらまで。)
[インタビューを終えて]
黒沢さんは、パソコンの中に残っていた自宅の写真を見せてくれた。津波直後の自宅周辺のものも含めて、以降の変化が見える。自宅まで車で30分の距離だが、今は立ち入れない。近所の人たちの求めに応じてプリントして配っているという。
自宅に帰ることもできず、移住もできない黒沢さんは、再スタートも切れない日々を過ごす。一方、こうした悲劇を創り出した東電は、貪欲に生き残りに向け奔走する。加害責任が曖昧にされ、責任のない被害者が自己責任を強いられている。
人民新聞社 本社 〒552-0023 大阪市港区港晴3-3-18 2F