[社会] 原発60年の暗黒
──パレスチナに平和を京都の会 諸留能興
戦犯者たち
私は、1946年生まれである。私の小学校時代は、テレビも冷蔵庫もなく、電化製品は、60ワットの裸電球が2〜3個と、アイロン、ラジオくらいだった。
1950年の朝鮮戦争勃発で、GHQ占領下の日本は、米軍の後方支援基地化として「電源開発促進法」を策定。「電源開発梶vが設立された。
こうした中54年、我が国の原子力にとって二つの重大出来事が起きていた。
一つは「第五福竜丸事件」だ。米国水爆実験による死の灰を浴びた遠洋マグロ漁船第五福竜丸の乗組員が、血清肝炎で死亡した。この水爆実験で放射性降下物を浴びた漁船は、数百隻にのぼり、被ばく者は2万人を越えると推測されている。
もうひとつは、中曽根康弘代議士(改進党)が推進役となり、自由党・日本自由党も巻き込んで、原子炉予算2億3千万円の突然の国会提出がなされたのである。この予算案は、3日で国会を通過したのだった。
56年、この原子力予算可決を「突破口」として、政府、産業界を主体とした、日本原子力委員会設置と、原子力開発基本計画が策定された。相前後して、「日本原子力研究所」、「放射線医学総合研究所(1957年発足)」、「原子燃料公社」(後の動力炉・核燃料開発事業団、さらに日本原子力研究開発機構へと統合再編)の3機関も設立された。
「放射線医学総合研究所」も「日本原子力研究所」も、原子炉産業推進が国家予算化した後になってから、発足した政府機関である。
「放射線医学総合研究所」は、その設立から原子力発電や原子炉産業を推進することを、側面から支えるための補助エンジン的役割を持っていることは、確認しておくべきである。
したがって、「放射線医学総合研究所」および「日本原子力委員会」が提言し認可している、現在の放射線量の安全基準値は、我が国民の生命や健康の安全を保証する数値では決してなく、将来の核兵器開発も射程に入れた、原子力発電の推進を大前提とする、安全対策、安全基準値である。これら政府機関のそうした姿勢は、2011年4月末現在でも、少しも変わっていない。
こうした政府の動きに対し、1954年、日本学術会議は、警戒感を深め、核兵器研究の拒否と、@研究の民主的な運営、A日本国民の自主的運営、B一切の情報の完全公開、の3原則の声明を出した。
しかし、この日本学術会議の声明や危惧は、あくまで原子力の軍事利用に対する警告にとどまり、その平和的利用を肯定している点では、原子力エネルギーの悪魔的リスクについての、根本的洞察を欠いていたと言わざるを得ない。
財閥復活
同1954年から、産業界が原子力分野へと触手を伸ばし始めた背景には、旧財閥が原子力5グループとして再編成を始めることで、戦後の財閥解体による痛手からの脱却を計り、再び巨大財閥グループへと変身していこうとする時期と、ピッタリ重なっている。この5グループとは、三菱系の三菱原子動力委員会、日立系の東京原子力産業懇談会、住友系の住友原子力委員会、三井系の日本原子力事業会、古河系の第一原子力グループ、の5つである。
1956年1月、原子力委員会委員長・正力松太郎は、第8回定例委員会において原子力産業会議設立を提唱し、経団連や電気事業連合会などの民間産業界もこれに呼応し、同年3月1日、社団法人日本原子力産業会議を発足させた。正力松太郎は、戦前は警察官僚を経て、読売新聞社社長、戦後はA級戦犯として公職追放後、1952年からは、日本テレビ初代社長に就任した、メディア界の帝王である。
こうした歴史的経過を辿れば、現在マスコミに登場する組織や人脈が、どのような系譜であるか、手に取るように明らかになる。日本の原子力はその発足当初から、政界・官僚・財界・産業界・学会、さらには司法界までもが、ガッチリとスクラムを組む形で、今日まで巨大化してきたことが理解できる。文字通りの、「巨大な国家独占資本体制」そのものである。
今回の福島原発事故で、大手のマスコミ界が、真実の報道を回避し、原発擁護の一大キャンペーンを展開したことも、こうした過去の経過を顧みるならば、当然だ。