[社会] 「健康被害なし」の発表を信じ自宅近くにとどまりたい
──黒沢正幸(47才)
報道がまちまちなのでここにとどまる
福島第1原発のすぐ南、大熊東工業団地にある化学薬品製造メーカーに勤める黒沢正幸さんは、よしこさん(前号でインタビューを掲載)の息子さんだ。仕事中に地震に見舞われ、工場は半壊。津波警報が出たので高台に逃げて、助かった。
原発を目の前にしながら仕事をし、生きてきた正幸さんに、汚染や事故の責任についての考えを聞いた。
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福島原発は東京電力ですから、私たちが使う電力ではないのですが、原発について深く考えたこともなく、「効率よく電気を作るプラント」くらいの認識しかありませんでした。事故があったとしても、原発の中で処理していると思っていました。こんな大事故は、想像もしていませんでした。東電の言う「安全」を信じていたわけです。
今回の事故については、自然災害の規模が大きすぎたと思っています。どのニュースでも言っているように、「想定外」だったのでしょう。
原発は、他のプラントと違って、一旦事故が起これば、その影響は計り知れないので、安全基準もより厳しくなければなりませんが、そうしたことも、今回の事態でわかったことで、事故以前においては頭になかったということです。
──汚染については?
東電や保安院や政府やIAEAなどの外国の機関が様々なことを発表し評価していますが、評価がバラバラで、「どれを信じて良いのかわからない」というのが、正直なところです。結局、自己判断するしかありません。
この地の被ばく量は、発表されている限りでは、一日の限度としてはそれほど大きくないし、テレビ・ラジオでも「健康被害を引き起こすほどではない」と言っているので、それを信じて、ここに留まるという判断をしています。
──地震当時は?
地震があったのは、控え室にいた時でした。工場は半壊です。3回くらい大きな揺れがあったように思います。化学工場ですから、劇薬もあり、有毒ガスが発生する可能性もありました。逃げる時もかなり恐い思いをしました。
工場は海から200メートルも離れていないので、誰かが「逃げろ」と叫び、津波に備えて高台まで逃げようとしましたが、道路は亀裂や段差で通れず、車を捨てて走りました。それでも原発が、あれほど深刻なダメージを受けているとは、思ってもいませんでした。
──建屋の爆発が起こった時は?
避難所に来ていたのですが、1カ月もすれば終息するのかと思っていました。だから、避難所に来た頃の情報源は、ラジオだけです。建屋の爆発も、テレビの映像では見ていません。地震後1週間くらいは、断片的な情報だけで判断しなければなりませんでした。ですから、放射能汚染については、情報も危機感もほとんどありませんでした。
ただし、建屋爆発から10日くらいは、車も人もほとんどなかったですね。3月25日あたりから人が増え始めて、店も開いています。ガソリンがなくて動けなかったというのもあるのでしょうが、みんな避難生活に疲れて、自宅に帰り始めています。
──今後の予定は?
仕事も「自宅待機」ということになっているので、遠くに行ってしまうと、生活基盤を失ってしまいます。家のこともあるので、できる限りここに留まりたいですね。