[社会] 高齢者介護は贅沢なサービスなのか?
介護施設で一生を終えるのは実現しにくい理想なのか
「被災者の方の受け入れを行っています。『ホームページで受け入れ情報を見た』とお伝え下さい」―3月11日から1週間も経たないうちに、事業所のホームページで大々的なキャンペーンが行われた。
すると、被災した福島県南相馬市の住民から、埼玉県の有料老人ホームへの入居希望が寄せられた。ご本人も含めて話を伺うと、これまで在宅で訪問介護などの支援を受けてきたが、「住居を失った現状では、介護施設を探すしかない」とのことだった。
私の職場だけでなく、関東近県の介護施設では、積極的に震災で被災した高齢者や介護施設の入居者を受け入れようとする動きが広がっている。介護施設が「終わりのすみか」だと信じてきた人々にとって、天災に翻弄されて、見知らぬ土地で介護を受ける生活は、耐え難いだろうと思う。
今や介護施設で一生を終えることは、それ自体が実現しにくい理想の一つなのかもしれない。介護施設は、入居する高齢者の期待に応えようとしても、他人に身を委ねる受身の生活はやはり弱い、という現実を見せてしまったのだ。
避難する側も辛いが、受け入れる側の施設も厳しい。私の上司が「お前、問い合わせのあった現地(北相馬市)に行ってみるか?」と訊ねたので、「受け入れて、会社にメリットがありますかね?」と、意地悪く質問を返した。すると上司は、「有料老人ホームなんて、受け入れ支援を表明しても、実際に入居する人は、まれだろうな。渡邉美樹(注@)みたいに、現地から連れてじゃないとなぁ」と、苦笑してみせた。私は「やっぱり有料老人ホームは、本当の意味での介護じゃないんですよね…」と言いかけたが、口を閉ざした。今の私の仕事が、有料老人ホームの立ち上げでもあったからだ。
そう思うと、日頃「高齢者の自立した生活を支える」と高い目標を掲げていても、介護とは、人が生きていく上では、副次的なサービス業でしかない、と自覚させられてしまう。今回のように、皆が一斉に被災すると、一人一人が自分自身のために生きるというテーマに向き合うことになる。被災した社会に求められるのは、まず救命だ。「トリアージ」(注A)の観点で言えば、経済的な観点から、若年者の支援が優先される。介護の問題など、優先順位が下がるのは無理もない。
被災した高齢者の受け入れ先が容易に決まると、「恵まれている」と陰口を叩かれてしまう。公的な介護は、もはや「贅沢なサービス」なのだろうか。しかし、それでは「生きること」自体が贅沢になってしまう。