[社会] 避難勧告地域への住民の帰還 政府・東電の《楽観的情報》は住民を死に追いやる
「生まれたときから原発があった」と語る青年
南相馬市。飯舘村と共に放射能汚染最前線の街として世界に紹介される。取材前は、ゴーストタウンを想像していた。ところが現地は、災害救援車に混じって自家用車もずいぶん走る。通りを歩く人は稀だが、コンビニも営業していた。緊急避難した人が自宅に帰り始めており、「市の人口は増え始めている」(同市秘書室)という。市役所1階の市民課は、被災証明等の手続きをする住民でごった返していた。
4月2日に大阪を出発し、1週間、福島・宮城を取材した。「被災地に行くなら救援物資を持って行け」と、仲間が水・卵・りんご・マスクなどを準備してくれたので、トラックに物資を積み込んでの現地入りとなった。
原発被災地は、予想に反することばかりだった。住民の帰還で避難所人口も増え始めている。支援物資は全国から寄せられ、私が届けた後も、次々とトラックが保管庫に物資を運び込んでいた。
避難所の人々に原発について聞いたが、「もう原発はまっぴら」という声はそれほど強くないことにも驚いた。生活を根こそぎ奪われ、故郷を奪った原発だ。恨み節が充満していても、不思議ではない。56%の人が、未だに「原発は必要」という世論調査結果と相似形だが、「生まれた時から原発がそこにあった」という16才の青年が語った「ほとんどイメージがない」という言葉は、象徴的だ。地震大国で、電力会社がこれほど多くの原発を作り続けてこられたのは、日本人全体がその実体を「知ろうとしなかった」からに他ならない。
福島市や仙台市は、外見上通常の生活に戻りつつある。周辺部から徐々に復興は進むが、最も被害を受けた沿岸部や原発周辺地域は取り残されていく。被災地間格差も広がっていくだろう。
まず、福島市から海側の相馬市を目指した。沿岸部に近づくと、景色が一変した。津波到達地点だ。瓦礫が散乱し、堤防の遥か手前なのに、泥の海が広がっている。田んぼだった所に、無数の倒木がころがっている。民家の庭に船が横倒しになり、重機が瓦礫を片づけていた。映像では見ていたが、津波の爪痕は、想像を超えるものだった。
「通行止め」の標識を越えて海に向かうと、軽トラックに乗った男性が、海を見つめていた。梨栽培農家だという坂本さん(仮名・35才)は、「ここに家があった」という。隣家に住んでいた父親は、津波にさらわれて行方不明。避難所生活を続けながら、梨の木の手入れに行く途中だという。津波は、4波に渡って襲い、「すべて流し去った」と語る。
海岸部で相馬市から南相馬市を繋ぐ74号線は、完全に破壊されている。できるだけ海岸部を通っていこうとしたが、道路が水没・寸断され、道がなくなると、内陸部の幹線道路まで戻って南下した。
原発に近づくにつれて、一般車両が減り、自衛隊・警察車両が増えてくる。市街地に入り、道を歩く人が極端に減ったことで、南相馬市の中心街に入ったとわかった。
50キロ以内立ち入り自粛する大手メディア
出発前、小林圭二さんから放射能を避けるための注意を聞いていた。@素肌が外気に触れないようにし、A汚染地域を出る時は、下着も含めてすべて脱ぎ捨て、B密封したゴミ袋に保管せよとの注意だった。このため、100円ショップで使い捨ての合羽・ビニール手袋を買い込み、シャワーキャップまで用意した。簡易の防護服だ。
線量計を持たないので、ここで防護服を着用すべきか?迷うところだ。しかし、防護服を着た私が、無防備の避難所の人たちにインタビューできるはずもない。
市役所があったので、災害対策本部を訪ね、避難所を教えてもらうことにした。まず支援物資を届けるためだ。合同庁舎は妙に静かだが、さすがに緊張した雰囲気がある。
避難所は、中学校の体育館で、市職員が避難者と相談しながら運営していた。昼間なので、半分くらいの人は、自宅に帰ったり、買い出しに出ているのであろうか、主の居ない布団もたくさんあった。ここに残る人々に、原発をどう考えるのか?を聞いたインタビューは、次ページに別掲する。
原発関連の事業体で働く人には会えなかったが、全体としては、明確に原発を拒否する人は少数で、事故の成り行きを心配しながら見守るという姿勢だ。
一方、市秘書課の星さんからは、東電やメディアへの辛らつな批判が返ってきた。東電と政府は、水素爆発で建屋が吹き飛んだ事態も含めて、南相馬市に状況を説明する努力を、完全に怠っていた。原子力保安員が南相馬市役所に常駐し始めたのは、事故から1週間後、東電社員に至っては、10日後だったという。
また、建屋爆発以降、日本のマスメディアは、半径50キロ以内への立ち入りを自粛し、もっぱら電話取材攻勢をかけた。無数のメディアからの問い合わせに対し、星さんは「現地に来て、自分の眼で見てください」と訴え続けたという。外国メディアやフリージャーナリストが、20キロ圏内にも入り込んで、原発被害の実態に肉薄しようとしていた。「ジャーナリストとはそういうもんなんでしょうね」―「行政としては困るんですけど」と前置きしながら、星さんは、日本のメディア業界人を批判した。