[情報] どうして「就活くたばれ!」デモなのか?
──大滝雅史(北海道大学文学部4年/就活くたばれデモ@札幌実行委員会)
言いたいことは言いたい!デモは楽しい!なんでもいいからデモっちゃえ
昨年の勤労感謝の日(11月23日)、大学生の「就活」の現状に異議申し立てをするデモを行った。全体の指揮をとった人間はおらず、各地の実行委員会が運営し、ネットワーク型の同時行動だった。
だが、札幌に住む僕が「言いだしっぺ」として生まれた企画であるため、「なぜ就活の問題についてデモをしようと思ったんですか?」と問われることが、たびたびある。
この質問への答え方は2つある。一つは、「就活の何が問題なのか?」について答える方法だ。たとえば、就活の時期が早期化し、期間も長期化しているために、大学の講義よりも、就職説明会や面接を優先せざるをえないこと。費用負担が重いこと(交通費・宿泊費なども含めて何十万とかかることも珍しくない)。リクルートなどの就職情報会社が、就活を煽っていること。「コミュニケーション能力」などの曖昧きわまりない概念が、選考の重要な指標になっていること。そもそも新卒一括採用という日本の雇用システム・慣行自体が問題をはらんでいること、などなど。
こうした問題を説明して、「だから、それを何とかするために問題提起しようと思った」と言えば、大体の人には納得してもらえる。
厄介なのは、「就活デモ」を企画したもう一つの理由、つまり「なぜ、デモをしたのか」という説明である。いまや大半の大学生、いや多くの日本人にとって、「デモ」は、学生運動の頃の歴史的遺物か、宗教的秘技のように異質なものである。
なぜデモなのか?
僕がデモによるアピールを企画した背景には、若い人に根強い「政治アレルギー」や「社会運動アレルギー」をなんとかしたい、という意識があった。こう書くと、「もっと政治のことをマジメに考えよう」とか「社会変革のために立ち上がろう」といった堅苦しい意識や思想に基づくものに見えるかもしれないが、根本にあるのは「言いたいことが言えるような世の中の方が楽しいだろう」といったシンプルな感情である。
基本的に僕はわがままな人間なので、思ったことや感じたことは言いたいし、不満は伝えたい。しかし、日本社会では「目上の人」に反論したり、社会の仕組みに対して異議を唱えると、すぐに「自分勝手な甘えた人間」と見なされ、「そんなことをしても変わらない」「ダサイ」などと言われてしまう。あげくに、「世の中ではなく、自分を変えろ」といった自己啓発ばりのアドバイスが飛んでくる。
声を上げることが、すぐに変化を生むとは限らないのかもしれない。しかし、社会の仕組みが「完成する」ことがありえない以上、意見や異議を唱える行為は、非常に重要だ。いや、理屈はともかくとして、言いたいことは言いたいのだ。黙って自分を責めるよりかは、とにかくマシに違いない。