[反貧困] 「脱成長」と優生思想
──小林敏昭(障害者問題総合誌『そよ風のように街に出よう』副編集長)
脳性マヒ者たちのラジカルな批判
依頼されたテーマは「障害者運動にとっての脱成長社会」である。私は障害者と健常者という分類では後者に属する(年齢相応にあちこちガタは来ている)が、学生時代に青い芝の会(日本脳性マヒ者協会青い芝の会)の脳性マヒ者たちと出会って以来、ずっと障害者問題にこだわってきた。今は、障害者問題の雑誌や書籍の編集でかろうじてメシを食っている。そして、青い芝運動を全面的に支持するわけではないが、「経済成長」を支えてきた生産力至上主義に対して脳性マヒ者たちがラジカルな批判を展開してきたことを、高く評価している。
ではあるけれど、いただいたお題の前にしばし逡巡の時間があった。理由は二つある。
一つは、「脱成長」という言葉が「シンプルライフ」や「エコライフ」「スローライフ」のように、新しいライフスタイルを心地良く彩るファッションとして消化されるだけなのではないか、という危惧を抱くからである。少なくとも、「脱成長」が中間知識階層の自己保存のためのツールとなり、貧困や差別にあえぐ人たち、「知的で尊厳ある生」を送っていないとされる人たち(重度知的障害や遷延性障害の人たち)を排除するという形で「縮小社会」を到来させようとするのであれば、それは断固阻止しなければならない。
排除を前提としない「脱成長」とは?
もう一つは、「脱成長」と「豊かさ(もちろん単に物質的なものではないが)」の共存が可能な条件を、地球規模あるいは地域レベルでどのように用意するのか、私にはよく理解できないからである。
ラトゥーシュは、「現実主義的で妥当な提案の実行は、全面的な体制転覆なしに採用される見込みはない。さらに、体制転覆のためには、思想の革命的な変革が必要であり、それは、自律的で共愉にあふれる社会という豊饒なユートピアの実現によって生み出される」と本紙(1384号)で述べているが、果たしてそれはかつてユートピアを目指した社会主義革命の末路をどのように総括した上でのものなのか。私の不勉強のせいもあるかも知れないが、現実の国民国家を前提にする限り、それが見えない。
ではあるけれど、「脱成長」以外の道が残されているとは思えない。「地球はいま、6度目の大絶滅時代に入っている」と、昨年9月24日付けの朝日新聞は書いている。記事によれば、09年の世界人口は70年の2倍の69億人、エネルギー消費量は、65年に石油換算で40億トンだったのが、08年には110億トンを越え、大気中の二酸化炭素濃度は上昇を続ける。00年からの10年間に毎年520万ヘクタールの森林が失われ、野生動物4万8千種のうち1万7千種余が絶滅の危機にさらされている。その先に待っている世界がどのようなものか、想像するに難くない。
つまり、「脱成長」「縮小社会」という方向は、革命的で環境循環的なエネルギー転換技術が開発されない限り、必然だろう。問題はその方向がどのような価値観、生命観によって支えられるかにある。それを考える時はじめて「障害者運動にとっての脱成長社会」というテーマが意味をなすのだと思う。そして結論を先に言えば、先ほど少し(重度知的障害や遷延性障害の人たちということで)触れたけれども、現在のままの人間観、生命観をともなった「脱成長」路線はかなり危険だということである。