[社会] 脱成長と労働時間の短縮
──イダヒロユキ(立命館大学非常勤講師)
言い古されているが実践されないスローガン
「脱成長」の思想(縮退論)とは、急に出てきた新しい概念ではなく、辻信一が「スロー」概念で継承したように、昔からの「物質主義批判」思想系譜につらなっているものである。物質的富の拡大、経済成長をよしとするのではなく、各人の価値観を転換し、自律・共生・持続可能の社会関係を身近なところから作り上げていこうとするものだろう。商品関係よりも非商品的な関係、資本主義的な労働よりも、共愉にあふれる創造的な活動が重視される社会を目指すという。
まあもっともであると私は思うが、昔から言われてきたことに何を加えるかとか、どう実践的な突破口を見つけられるかが鍵と思う。スローガンだけにとどまっていてはあまり意味がないし、学者が、社会的排除/包摂論やベーシック・インカム論と同じく、社会全体の経済がどうこうと論じて、ただ抽象的に学問的に論じる材料として扱う限り、それはつまらない。
さて、私に与えられた課題は、労働時間短縮問題と脱成長論との関係の考察である。入門論的に言えば、皆が追い立てられ、肥大化しすぎた物質主義的社会を見直していくために、物質的欲望と購買と成長を抑え、短く働き少ない収入でシンプルライフをしていこうということだから、つまり、ワークシェアをしよう、ワーク・ライフ・バランスを追求しよう(ついでに売り上げのシェアも)ということなので、労働時間を短縮するのは、脱成長路線にとっては当然中の当然のことである。
だが、そんなのはもう言い古されている。実践されていないだけである。政治も経済も思想においても、いまだ大多数の人(企業、行政)が、高度成長時代の成長主義のままで、「成長」「物質的豊かさ」「開発」などといった幻想への不合理な執着が続いている、というだけのこと。
世間の現実と別様に生きちゃえ
で、私の関心にひきつけて話を展開すると、労働時間の短縮をマクロで語る話は、つまらない。ベーシック・インカムの財源がどうこうという議論と同じである。従来の経済思想=現実主義から区別される「脱成長」思想の面白さは、マクロ的な語りからの離脱にある。そしてその実践としての、主流秩序から離脱する/抵抗する生き方である。ということで、私は、以下、主流秩序から離脱する/抵抗することとして、労働時間にかかわらしめて話す。
まず、私が所属する「ユニオンぼちぼち」にみられる現実のある一面は、仕事がない、就職が難しい、病気を抱えて働けない、仕事先で叱咤され体よく首を切られる、パワハラの横行、ということであり、だからこそ、何とか居心地のいい職場につけたなら、「仕事があって充実感がある」と思うような状況である。
だが、だからといって、とにかく就職支援だ、ではないと感じている。就職支援も生活支援も必要だが、今の主流社会に適応することばかりが求められる中で、何とか、そこから外れても生きていける、しかもできればイキイキと自由に生きちゃう、というような状況に近づきたいと思っている。
だって、みんなが正社員になれないから。だって、正社員になっても、ならなくても、まじめに働いていても、給料が安くてくたくたに使われ、病気にされたり首切りで使い捨てられている現実がたくさんあるから。理想的な社会には当面ならないし、なかなか政治や制度や企業文化の変化は来ないから。自分の今は今しかないから。