[海外] アフリカ/国連西サハラ住民投票 即時実施求める西サハラ民族
──SJJA(サハラ・ジャパン・ジャーナリスト・アソシエーション)代表・平田伊都子
アフリカ最後の植民地・西サハラ
11月8日、モロッコ治安部隊が西サハラ被占領民の2万人抗議キャンプに突撃。ヘリコプターと放水車も動員しキャンプ撤去を命令。西サハラ人の死者16名、負傷者723名、行方不明159名が犠牲となった。「アフリカ最後の植民地」と言われる西サハラでの事件だ。
スペインからの独立を願い結成されたボリサリオ解放戦線は、その後モロッコとの独立戦争を強いられた。スペインが同地を勝手にモロッコに譲り渡したからだ。現在も国際世論は、パレスチナと同様、西サハラの軍事占領を無視し続けている。
西サハラで始まったインティファーダの現状・背景を平田伊津子さんにルポしてもらった。(編集部)
西サハラのインティファーダ
2010年10月25日夕方、日没前に援助の水と食料を積んだ2台の車が、西サハラ難民キャンプへ急いでいた。その時、追跡してきた2台のモロッコ軍が銃を乱射。助手席の少年が、血を吹いて倒れた。
撃たれた車は、銃弾の中をUターンし、モロッコ軍検問所を突破、15キロ離れた病院に向かった。病院に着いた時、少年は息絶えていた。
ここはアフリカ西北端、西サハラ砂漠、西サハラ・モロッコ占領地で進行中の事件だ。2010年10月13日、「アフリカのパレスチナ」とたとえられる西サハラ・モロッコ占領地で、インティファーダ(住民蜂起)に火が点いた。息を潜めてモロッコ占領当局の圧政下で暮らしてきた西サハラ被占領住民が、続々と居留区を脱出し、首都ラユーンから15キロ離れた砂漠で抗議のテントを張り出したのだ。今も、西サハラ非占領民の30%、約2万人がキャンプ抗議を続ける。
彼らを指導しているのは、アルジェリアの西サハラ難民亡命政府「ポリサリオ」だ。モロッコ占領地とアルジェリア難民キャンプに別れて住む西サハラ民族が、いよいよ一体となって、ポリサリオ指導の下で「国連西サハラ住民投票の即時実施」と「モロッコ占領反対」を世界に訴え始めた。
2010年10月25日、ポリサリオは、14才のエルガリ・ナエム少年を射殺し、残り7人の負傷者を拘束したモロッコ軍を非難し、「負傷者を釈放しろ」との声明を出した。
独立求めポリサリオ結成
現在、アルジェリア西サハラ難民約20万とモロッコ西サハラ占領地被占領住民約7万、計約27万の西サハラ民族をポリサリオが指導している。
「西サハラ解放のための人民戦線」を意味するポリサリオは、1973年に遊牧民の息子エル・ワリによって創設された。
ポリサリオ創設当時は、スペインが西サハラを植民地支配していた。ポリサリオはラクダを疾駆させ、砂漠の民・ベドウィンにもらった旧式のライフル銃でスペイン軍要塞への奇襲攻撃を繰り返した。
75年、執拗なポリサリオ・ゲリラに手を焼いたスペインは、リン鉱石と魚しか取れなかった西サハラ植民地を手放すことにする。スペイン独裁者フランコ危篤による政情不安も、スペインの西サハラ撤退を早めた。
75年11月14日、マドリッド秘密協定が結ばれ、スペインは西サハラ北部をモロッコに、南部をモーリタニアに分譲した。この分譲は国連にも西サハラ住民にも内緒の闇取引で、しかも10月16日には国際司法裁判所がモロッコとモーリタニアの西サハラ領有権を否決という明らかな国際法違反の犯罪行為でもある。
スペイン軍が撤退するや、モロッコ軍とモーリタニア軍が、続々と北部と南部から西サハラに軍事侵攻してきた。 西サハラ住民は両正規軍に挟み撃ちにされ、広大なサハラ砂漠の真ん中で立ち往生、ポリサリオは、臨時避難民キャンプを急造し、茫然自失の住民を収容した。
しかし、その避難民キャンプは、モロッコ軍ジェット戦闘機の空爆で破壊される。ポリサリオは急遽、アルジェリア政府から難民キャンプ設置の許可を取った。