[コラム] 深見史/さりげない関係の成長や出会いの積み重ねこそ大事に
大連─故郷への旅
今年初夏、母と大連に行った。私にとっては初めての中国だが、母にとっては「故郷」への旅だ。
昨年、旅順が外国人観光客に開放された。そのニュースを聞いて、母は「旅順を歩けるのなら」と、私の大連旅行の提案に乗った。
大連のホテルから車を出してもらった。運転手は、朝鮮族の若い男性。彼とはほとんど言葉が通じなかったが、母が大昔に住んでいた家に行く、ということだけは何とか伝えた。
大連市内から50キロ、1時間半程度で着いてしまう旅順は、母が75年前に住んでいた町だ。祖父の転勤にともなって大連のあちこちを転居した母の幼い頃の思い出は旅順を中心にあるらしく、これまでは「旅順に行けないのでは、大連に行ってもつまらない」と、旅順への想いをつのらせていた。
地下鉄や高層ビルの建築がいたるところで進められている、まさに急速な経済発展のさなかにある中国の様子を見ながら、海に沿って走る。
旅順に着いた。まっすぐに昔の家のあったあたりに行く。そこには75年前に住んでいた家が残っていた。しかも人が住んでいるらしく、カーテンが揺れている。
まさか家が残っているとは思っていなかった母は驚き、残っていてくれた家をしばらく眺めて、ため息をつきながらまた眺めて、そして帰ることにした。
帰ろう、と運転手の青年に合図をしたが、青年は車に戻らず、その家のドアを叩いた。まもなく家の中から中年の女性が現れた。青年はなにごとかを説明した。女性は、笑顔で私たちを手招いた。
女性は狭い家の中に私たちを招き入れ、部屋を全部見せてくれた。母は75年ぶりに、幼年期を過ごした家の中に入った。「ずいぶん狭く感じるけれど、間取りは同じだ」と言った。
私たちは家の前でみんなで写真を撮り、名前を問い合うこともせずに別れた。それだけだった。母はその後、その家のことも、そこに住んでいる人のことも、その青年のこともほとんど語らなかった。昔の思い出を一度辿って、それでなにか納得したようだ。
植民地で生まれ育った者が、その地を追われた。75年後、育った家を訪れた者を、家の住民が招き入れてくれた、というだけのこと。なんでもないこと、あたりまえのこと、なんの変哲もないことだ。そこには、大仰な出会いも、感激も、許しのドラマもない。
それはそうだろう。場所とはそんなものだ。あの旅順の家に関わりがあるのは、住んだことのある人間、今住んでいる人間だけだ。それ以外の人間は全部、部外者でしかない。あの家についてなんの想いも利害もない者が、あの家の価値や帰属について語ることに、全く意味はない。
場所とはそんなものだ。出会った者がそれぞれ異なった感情を抱いてそれを分かち合う。それだけのことだ。
それが古ぼけた家であっても、海の中の孤島であっても、場所とはそんなものだ。
さりげのない出会いと関係が築かれていくことのほうが大切だ。このさりげない関係の成長を、なんでもない出会いの積み重ねをこそ、大事にしたい。失いたくない。