[反貧困] 私はこうして生活保護受給者となった 家族・友人というセーフティネット失いホームレスへ
ゲームセンターからダンスインストラクターへ
高見さんは、ショー・ダンサーの夢を追っている。ステージに立ち続ければ、チャンスが訪れるかも…。ダンス・インストラクターとして生計を立てていたこともあったが、スクール倒産と母親の死亡が重なり、ホームレスに。
2年近くホームレスだったが、野宿は経験していないという。派遣で働き、ネットカフェに泊った。いよいよ金がなくなると、友だちの家で泊めてもらう。家族・親戚というセーフティネットを失った高見さんにとって、最後のセーフティネットは友だちだった。(編集部・山田)
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中学卒業後、2年くらいは、たまにバイトをする程度で、母親に食べさせてもらっていました。父親も兄弟姉妹もいないので、母親と二人の生活です。母親はパートで働いていましたが、椎間板ヘルニアで働けなくなり、生活保護を受けるようになりました。
母親の体調は回復せず、ケースワーカーにも学校へ行かないなら働くように言われ、友だちの紹介で京都のゲームセンターで週4〜5日働くようになりました。月収15万円+母親の生活保護費での暮らしが始まりました。
約2年働きましたが、もともとダンスが好きで、プロをめざしていたので、インストラクターの仕事を探し、飛び込みでダンスを見てもらいました。すぐに契約できて、転職しました。
ダンス教室の倒産と母親の死
当時は、ダンスブームで、ブレーク・ダンスを週3日教えていましたが、数年でブームが去り、生徒が減ると、スクール間の競争も激化し、働いていたダンススクールが倒産しました。同じ頃、07年の冬に母親が事故で亡くなりました。北海道にいる遠い親戚に頼るわけにもいかず、お金もなかったので、たちまちホームレスになりました。
ネットカフェや友だちの家を泊まり歩き、派遣の仕事がある時は、働いていました。新聞折り込み広告の印刷工場や引っ越しやイベント設営、ダンスを教えるアルバイトもたまに入りましたが、派遣の仕事は月に10日もあればいい方で、アパートを借りるお金は、全く貯まりません。ネットカフェに泊まる金もなくなると、友達に泊めてもらいますが、連絡が取れない時は、絶望的な気分になります。