[反貧困] 私はこうして生活保護受給者となった 貧困の実態から「労働と生活保障」を問うC
建設・土木の仕事なくなり派遣から慢性失業〜市の施設へ
神奈川県出身の遠藤隆さん(仮名)は、震災直前に関西に来た。東京では、羽田空港貨物ターミナルで、積み荷の仕分け作業をやっていたこともある。関西に来て数年は、震災復興の建設特需があり、仕事にアブレることはなかった。その後も、10年くらいは、人材派遣会社の寮に住み込んで建設現場を渡り歩き、基礎・型枠大工など、何でもこなした。当時の月収は、約16万円、寮費・食費を引かれて7万円程を手渡されていたという。(編集部・山田)
昨年11月頃から仕事が減り始めて、1月になると週に1日くらいしか仕事がなくなりました。仕事が減ってくると、固定メンバーに優先して仕事が振られ、私は急激に仕事がなくなりました。仕事にありつけないと、寮費と食費が貯まって、赤字になります。寮にも居られなくなり、切羽詰まって西成区役所に相談に行きました。すぐに舞洲の自立支援センターに収容され、今は西成の自立支援センターに移されて寝泊まりしています。
働き始めて20年くらいになります。建設土木の仕事が多かったのですが、2000年前後は、派遣会社を通して、滋賀県にあるキャノン中浜工場に派遣され、プリンターの組み立て作業をやっていました。
当時の収入は、寮費・食費を引かれても20万円位手元に残りました。寝る場所の心配もなく、金銭的にも少し余裕がありましたから、この頃が一番安定していた時期です。
生活保護は、考えたこともありませんでした。39才の私が生保を受給するのは、忸怩たる思いはありますが、今生きる術は、これしかありません。アパートに落ち着くことができれば、すぐに仕事を探し、元の普通の生活を取り戻したいと思っています。
職種としては、長身を生かした警備の仕事がいいと思っていますが、数名の募集に応募者が殺到しています。しかも決まった住所がないとダメなので、早くアパートを確保しないと就職活動も前に進みません。
建設土木の仕事は変動が大きく、いきなり仕事がなくなります。年も年なので、安定した仕事に就きたいと思っています。