[社会] 「経済成長」という神話からの解放A
セルジュ・ラトゥーシュ氏インタビュー
──「脱成長」に向かうにあたって、国民国家や世界政府の役割は?
ラトゥーシュ…私は、国家社会主義者ではない。世界システム論者のような世界同時革命や社会主義世界システムの構築のようなものも、拒否する。こうした意味で私は、「国家なき社会主義者」である。
「脱成長」は、各地域社会における参加型民主主義を重視しており、参加型自治体が重層的にネットワーク化した「自治体連合」のようなものを想定している。各地域社会が「生産の自主管理」「政治の自己統治」「地域の生態系の自主管理」を行うことが重要である。
世界政府や国際機関に関しても、限定的役割しか果たせないだろう。ただし、近年のボリビアやエクアドルの新憲法の事例でもみられるように、先住民の権利の承認など、ローカルなアイデンティティの自律性を維持するために国家の制度が変わることは、一つの戦略として有効だとも考えている。
さらに言えば、権威主義的な権力が、エコロジーの必要性を誇張する危険もある。感染症の管理、原子力事故、気候変動による移民の「管理」を理由に、自由を制限するのである。
いずれにせよ、グローバルな問題に対してグローバルな政策をもって解決しようとすることには、限界がある。新しいネットワークや意見交換の場は必要だろうが、成長主義社会へのオルタナティブは、地域の条件に応じた様々な過程があるからだ。
キリスト教の救済史観のように、世界が最終的に1つの到達点に向かうという考え方は、破棄しなければならない。人間は、自分たちの未来を自分たちで決める。しかしそれは、「近代化=西洋化」のような1つのモデルに似せて自分の姿を作り変えることではない。
フランスと日本の「脱成長」に向けた運動は、違いと共通点を持ちつつ繋がっていくことを期待している。
──貧困にあえぐ第3世界には、経済成長が必要では?
ラトゥーシュ…「脱成長」という考えは、南側諸国、中でもアフリカで誕生した。アフリカにとって、国内総生産の縮小は必要ではないし、望ましくもない。しかしまた、成長主義社会を構築すべきでもない。
私は、メキシコのサパティスタ運動との連携がある。ボリビアやエクアドルの先住民運動からも学んできた。彼らが「脱成長」というスローガンを採用する必要はない。エクアドルの新憲法は、先住民運動の精神を一部取り入れたもので、それは「脱成長」社会が目指すものと、極めて近いものだ。