[反貧困] 生活保護受給当事者からみた「ベーシック・インカム」 「私はこうして生保受給者となった」
貧困の実態から「労働と生活保障」を問う
生活保護受給者のインタビュー連載を始める。20〜30才代の若者中心に話を聞いている。野宿生活者の収容施設である「自立支援センター舞洲」(大阪市・此花区)。ここの入所者のうち「20〜30才代の若年層が急激に増えている」と聞いたのが、今年の初めだった。実際、09年度の同施設入所者のうち39才以下は、前年比6割増加して36・3%。中高年層を抜いて最多数派の年齢層となっていることがわかった。なぜ30代の若者が野宿まで追い詰められるのか? 当時私は、「派遣切り」に代表される若者の雇用がますます厳しくなっているのだろう、という位の理解だった。
こうした中、ベーシックインカム(基礎所得。以下「BI」)が、右派からも賛同者が現れ、議論が活発化している。《無条件で最低生活費を保障する》というBIは、未来のセーフティネットとして現実感を持って語られ始めている。
完全雇用が崩れ、賃労働で人生を全うするという大前提が崩れつつある今、「労働と生活保障」についての根底からの議論が必要だ。その意味で、賃労働から排除され、生活基盤を根こそぎ失った彼ら当事者の声こそ、改めて聞く意義があるだろう。
反貧困運動の成果で「最後のセーフティーネット」である生活保護がようやく機能しはじめた途端に、「貧困ビジネス」批判を端緒に、生活保護制度へのネガティブキャンペーンが始まった。連載は、これへの反論でもある。(文責・編集部)
虐待母親が家賃未納でホームレス
大北誠二さん(大阪府)は、21才。幼児期虐待を受け、中学卒業まで施設で育った。定時制高校入学後、母親が現れ同居。アルバイトで家計を支えたが、母親が家賃を滞納し、ホームレスに。1年半の間、ネットカフェに泊まりながら、路上パフォーマンスで日銭を稼いでいたが、「不安定な暮らしから抜け出るため」、免許・資格を取得し、就職活動へと繋げたいと、生活保護を申請中だ。(編集部)
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小学校2年生の時に、気がついたら、施設で暮らしていました。4〜5才の時に親にライターで炙られていたという記憶以外、幼児期の記憶はありません。
中学卒業時に母親が現れて、一緒に住むことになりました。定時制の工業高校に入学し、昼間は高校の近くにある工場で働く、という新しい生活が始まりました。卓球部顧問の先生が、化粧合板や、携帯電話電池パックの製造工場を紹介してくれました。
当時、12〜13万円の月収がありましたが、3万円の小遣い以外はすべて母親に渡していました。ところが、08年6月、寝ていたら母親に起こされ、「私は出ていく。あんたは自分で何とかし」とだけ言い残して、母親は出ていきました。家賃を滞納していたのです。母親から説明もなく、今も理由がわかりませんが、その日からホームレスになりました。
母親については、「親」という感覚はありません。中学卒業時に、突然現れて同居生活しましたが、それもずっとすれ違いの生活だったからです。そもそも「何故、一緒に暮らさねばならないのか?」疑問でした。
母親が出ていった時も、「悲しい」という感情も、怒りの感情も起きませんでした。ただ、突然ホームレスになって学校も辞めたので、「あのまま施設にいた方がよかった」と思いました。施設なら、学校も卒業できただろうし、働いていた金も貯まっていたはずですから。
施設暮らしは、私にとってプラスだったと思います。施設では、年上や先生への敬意とマナーを徹底して教えられました。一般の家庭で育つより、社会人としてのマナーは身に付いているはずです。
母親出奔の日以来、1年半、路上生活をしました。マジックができたので、ミナミの繁華街に立てば、4000円/日位は稼げました。その金でネットカフェで寝泊まりする生活です。