[コラム] 五味正彦/「もうひとつの働き方」の第一世代=模索舎の40周年
もう一つの自分たちの広場づくり
09年はもう終わるが、来たる2010年は私にとって節目の年、行く年来る年の境目の今、ひとつの歴史を思い出す。
2010年になると、その40年前、1970年当時のことを思い出さざるを得なくなる。ミニコミ書店「模索舎」をつくった年だ。そのへんのことにふれる前に、ちょっと一言。
私がこの欄に登場したのが02年10月15日号、その初回に「しばらく私の得意分野、出版・ミニコミ・エコロジー・農業あたりをテーマに…」と書いた。実はここでふれなかったテーマがある。 “政治” というテーマだ。今こそ政治的発言が重要なのに、私はそれにはふれないということでこの欄を書いている。編集部から頼まれたのではなく、私の側の勝手な事情だ。お許しあれ。
模索舎(発足時の正式名称は「スナックシコシコ+情報センターへの模索舎」がオープンしたのは、'70年10月28日。設立時のメンバー(当時私たちはこれを総会メンバーと呼んだ)は約50名。
出資した人、店にとって必要な現物を提供した人、店づくり、内装工事など労働を提供した人、オープン後専従スタッフやパートで働く人、これらが全て総会メンバーで、当初は月1回程開かれた。
メンバーの多くは、4つの源流に関係していた。@ベ反学連を中心にしたノンセクトの学生・労働者の活動家。A行動する学生の総会誌『摸索』の関係者。B津村喬著の『魂にふれる革命』を出版したライン出版に集まった者。C総会屋雑誌『構造』の関係者。もちろん複数に関わる者も多かった。
新宿西口地下広場がなくなり(機動隊に蹴散らされた)、 “もう一つの自分たちの広場づくりを、自分たちの金と労働で” と動き出し、ノンセクトの運動を続けるためには、セクトのように指導部・司令部がない構造なのだから、自前の判断をするためには全国の様々な情報・ミニコミが集まる情報センターがほしい。この2つが模索舎づくりの原動力だった。
総会の決定方法も、いわゆる会社のように出資金(資本金)に応じた決定権ではなく、総会メンバー(構成員)平等な一人一票という方法だった。当時私たちは、これをソビエト型とか労働者評議会型とか呼んだが、今風に考えると、これはワーカーズコープ型と考えられる。
“就職しないで生きるには”と、もうひとつの働き方の第一世代のその先鞭を切った模索舎だが、40年にわたり経営者がいない働き方を続け、歴史と社会に対し何がしかの役割を果たしたことをふまえ、その労働の質、働き方そのものにも焦点を当てるべきだと思う。
なお、模索舎の総会は1977年をもってなくなり(実質的にそれ以前に成立しなくなっていたが)、そこで働く者が全てを決定する方法に変え、今回に至っていることを付記する。