[コラム] 栗田隆子/秩父紀行で革命を夢想した
音楽寺の鐘を突きながら夢想した革命
今年から急に「シルバーウィーク」と呼ばれる秋の連休。この連休の5日間を秩父で過ごした。「秩父」と言っても、関東近県以外の方にはあまりピンとこないかもしれない。「秩父」は、埼玉県で、山梨と群馬の県境にも程近い。東京から特急で1時間半で着くが、それはそれは深い山間で、場所によっては、熊や猪が顔を覗かせる。
ここは「秩父三十四箇所」と呼ばれる観音霊場巡りの(「札所巡り」とも言う)メッカである。四国八十八箇所巡りのイメージを思い起こしていただければありがたい。
この札所巡りを突如決行したくなったのである。ちなみに、私はキリスト教徒(カトリック)である。いろいろな貞操観念(この言葉そのものが死語だが)のない私であるが、とうとう宗教に対する貞操観念も失いつつあるようである。
深くお寺の美しさに魅せられた私は、締め切りも踏み倒し(すみません)、活動のイベントのお誘いも断りぬき(これもすみません)、何かに取りつかれたかのごとくひたすら、ひたすら山道を歩き、寺を巡った。5日間で100キロ。筋肉痛で悲鳴を上げた脚にサロンパスを貼って歩いていた。「人間、歩きたい道は歩くもんだな」と。そして、歩きたくない道はテコでも歩きたくない自分自身を発見する旅でもあった。
さて、秩父という場所は、なかなかに含蓄深い場所である。秩父事件といえば、日本近代史では欠くことのできぬ重要な事件である。ネット上の「ウィキペディア」(誰でも編集できる、フリーな百科事典)には、下記のように記載されている。
「秩父事件(ちちぶじけん)は、1884(明治17)年10月31日から11月9日にかけて、埼玉県秩父郡の農民が政府に対して起こした武装蜂起事件。自由民権運動の影響下に発生した、いわゆる『激化事件』の代表例ともされてきた。(中略)秩父地方では、自由民権思想に接していた自由党員らが中心となり、増税や借金苦に喘ぐ農民とともに『困民党(秩父困民党。秩父借金党・負債党とも)』を組織し、1884(明治17)年8月には2度の山林集会を開催していた。そこでの決議をもとに、請願活動や高利貸との交渉を行うも不調に終わり、租税の軽減・義務教育の延期・借金の据え置き等を政府に訴えるための蜂起が提案され、大宮郷(埼玉県秩父市)で代々名主を務める家の出身である田代栄助が総理(代表)として推挙された。蜂起の目的は、暴力行為を行わず、高利貸や役所の帳簿を滅失し、租税の軽減等につき政府に請願することであった」。
「貧困」が席巻してしまっている昨今、こんな名前の党が生まれたっておかしくない。この秩父事件の発端として、秩父札所23番目の「音楽寺」(なかなかグッドネーミング)という寺にある鐘を志士が突きまくり、決起を促したというのだ。今でいえばサウンドデモに相当するといえるだろうか。
私もぜひ、この寺の鐘をガンガン打ち鳴らそうと心に決めた。観光客の一団が後に迫っていたので、ものすごい勢いで山道を駆け上り、「静かに突いて下さい」という鐘の脇にあった注意書きを無視してガンガンと3度突き、「ほんとうの革命」が起きますようにと、祈った。私の後にいた観光客も一人一回は突いていたので、ガンガンと鐘の音は四方に響き渡っていた。この鐘の音がほんとうの革命を告げる音だったら、と妄想した。
秩父旅行で知った至福は、秩父蕎麦を啜りつつ、地酒「武甲正宗」で一杯やることだ。「武甲」とは、男神と讃えられた秩父にそびえ立つ武甲山のことである。しかし、今や武甲山はセメント採取のため、見事な禿山となっている。禿山の武甲山を目に焼きつけ、私は秩父を後にしたのだった。