[海外]パレスチナ/リベラルと左翼の誤ったイスラム理解
──ギラード・アーツモン(ロンドン在住作家)
いまパレスチナでは
宗教は悩める者のため息であり、心無き世界の心であり、精神無き世界の精神である。それは、民衆の阿片である。―マルクス 1843
リベラルと左翼の間違った宗教観、特にイスラムとパレスチナに関する点について述べる前に、一つ悪趣味なジョークを披露したい。フェミニストが嫌いそうなジョークである。
1990年代後半にアフガニスタンを訪れた米女性活動家は、女性が5bも離れて男性の後ろを歩くのを見て驚いた。通訳が、「家父長尊重を規定する宗教による慣習だ」と説明した。帰国した彼女はアフガニスタン女性の権利を向上させる運動を始めた。暫くしてまたカブールを訪れる機会があった。今度は前とは全く逆の現象を見てまた驚いた。妻が夫より10bも前を歩いているのだ。彼女は急いで米国の運動本部へ電話をし、運動が成功してアフガニスタン女性の地位が向上したと伝えた。「かつては男性が先頭を歩いたが、今では女性が先頭を歩いている」と。すると傍で電話を聞いていた通訳は、彼女の間違いを正した。「女性が先頭を歩いているのは、地雷が埋められているからだ」。
我々は自分が思うほど自由ではないのだ。自分の思想や認識の創造主ではなく、存在様式も外から規定されたもので、文化やイデオロギー的注入の産物、あるいは知的怠惰の犠牲者にすぎない。ジョークの中の女性活動家と同じように、先入観に囚われていて、物事をありのままに見ることができない。だから、特に遠くの文化を、自国の文化の価値観や倫理観で解釈(あるいは誤解)してしまうのだ。
宗教から分離した世俗的世界観
その中で人民の支持を得ようと競い合っているイデオロギーが2つある。リベラルにとっては個人の自由と公民的平等であり、左派にとっては、「進歩と反動を識別できる社会科学的ツールがある」という思い込みである。しかし、この2つの近代的世俗主義的倫理観は、善とは逆の結果を生み、倫理的迷路へとはまり込んでいる。リベラルが、犯罪的・介入主義的・植民地主義的な戦争の地ならしをし、左派が間違ったイデオロギーや誤った議論を展開してそういう戦争に反対できなかったのは、この2つの潮流が、いわゆるヒューマニズム(人間中心主義)にこだわったからである。
リベラルも左翼も「世俗主義が世界の悲劇を癒す薬だ」という、お定まりの西洋的公式を持ち出す。確かに、西洋の歴史ではそうであったろう。世俗主義はキリスト教文化が生み出したもの、つまり、キリスト教の歴史的展開から宗教と切り離れた公民的存在を認めざるを得なくなった歴史過程の産物である。
西洋では精神世界と公民的世界とはだいたい分離している。この分離から世俗主義と合理主義的ディスコース(話法)が生まれた。啓蒙主義と近代主義精神に基づく、世俗的倫理体系が生まれた。同時にそれは、偏狭と言ってもよい野蛮で反宗教的な世俗原理主義を生み出した。
キリスト教と異なり、イスラムもユダヤ教も部族社会的な信仰体系である。その根底にあるのは啓蒙化した個人主義でなく、大家族制の維持である。西洋人から究極の暗黒政治体と見られているタリバンは、そもそも個人的自由とか個人的権利などという問題にはまったく関心がない。彼らが価値を置くのは、《コーランに照らして部族の安全と家族的価値観を守ること》である。ラビが率いるユダヤ教もその点では同じで、《ユダヤ教の生活様式を維持することでユダヤ民族を保護・維持する》のだ。だから、ユダヤ教でもイスラムでも、精神世界と公民的世界の間に壁はない。宗教が、心の問題、公的生活の問題、文化的問題、日常生活上の問題等すべてに完全解答を与える仕組みだ。