[海外]アルゼンチン/地球に根ざした自律的空間
──藤井枝里
はじめに
久しぶりにアルゼンチンからレポートが届いた。今回のテーマは、「アサンブレア」(住民評議会)。キューバのレポートでは報告しきれなかった「住民自治」の実践。サンテルモ・ドレーゴ広場の民衆アサンブレアのインタビューも含まれる。代議制民主主義を否定し、水平性に基づいた住民の直接自治の一端を報せてもらった。(編集部)
アルゼンチンの息吹 アサンブレア
今回もまた、2001年12月19・20日のブエノスアイレスから始めよう。
アサンブレア運動は、まさにその真夏の戒厳令下、民衆蜂起の熱の中で生まれた。鍋をたたきながら街にくり出す人びと、大統領府のある五月広場へ向かう人びと、近所の街角や広場に集まり始める人びと。怒りの起爆剤は、経済危機に耐えられなくなった政府が、資金流出を防ぐために預金引き出し制限をかけたことだった。さらには、90年代からインフレ抑制策として採られていた1ドル=1ペソ体制も崩壊し、変動相場制に移行。生涯コツコツと働き、子どもの教育費やたまの旅行に、と貯めてきた貯金が、あっという間に紙切れ同然になってしまったのだから、誰だって黙ってはいられない。
01年12月には、ブエノスアイレスを中心として、66ヵ所でのカセロラッソ(鍋たたき抗議行動)があった。そして死者を30何人も出す弾圧でさらに市民の怒りをかった大統領は、ヘリコプターで逃げていった。その後、カセロラッソの数は次第に減っていく。02年1月は一日22ヵ所、2月は11ヵ所、3月には4ヵ所。(*注@)
人びとは、収まっていく抗議行動の裏で、一体何をしていたのか?その答えのひとつが、アサンブレア運動だった。02年当時、やはり首都を中心に、全国で272のアサンブレアが確認されている。この運動の文脈におけるアサンブレアは、近隣住民評議会、住民自治議会などと訳されるが、つまりご近所さんの集会だ。小さいものは30人から大きいものは300人まで規模は様々、広場で開かれるものから、空き家を占拠したもの、政府と土地の使用賃借契約を結んでゼロから家を建てたものまで、場所も様々だ。
注目を集めたのは、アサンブレア内部での参加・討議・決定にいたるプロセスの完全な水平性と、あらゆる政党や労組から自律した、地域に根ざした自己組織化の取り組みだ。なにせ大統領を辞任させた先の民衆蜂起が、この国の代表制民主主義に対する、決定的な不信任の表明だったのだ。代表する者/される者という政治関係は、問い直されることになった。
それにしても、アサンブレアについて語られる「完全な水平性」「連帯に基づく協働」「直接民主主義のメカニズム」といった言葉は、実際何を意味しているのだろう?意思決定はどのようになされているのか、財源はどこから得るのか、政府や労組との関係はどうなっているのか、、また他の社会運動とのつながりは……?
当然ながら、これらの疑問に対する答えは、要約不可能な多様性をみせている。例えば、あるアサンブレアは、「代表されること」そのものを拒否する。多数決も採らない。多数派による政治は、少数派を排除し共同体に分裂をもたらすからだ。よって話し合いによる全員の合意を追及する。そのため「代表されない者たち」の政治は、居住地区を基盤とした比較的小規模な集団を前提とする。役割分担は輪番制や立候補で決め、代表者は選ばない。手続きの官僚化を防ぐため、成文化された規則もつくらない。
一方で、別のアサンブレアが拒否していたのは、「きちんと自分たちが代表されていないこと」だ。あの民衆蜂起でも、多くの人びとが、早急な選挙のやり直し、つまり国民の多数派の意見が議会に正しく反映されることを求めていた。こうしたグループが目指すのは憲法に基づいた正統な(間接)民主主義だから、アサンブレアも、各種委員会から構成されており、多数決で代表を選出する。また財源として、毎月会費が集められる。(*注A)
このように、一言でアサンブレアといっても中身は本当にいろいろだ。一部のアサンブレア活動家が「社会主義革命前夜」について語っている一方で、下からは「中流・中の上くらいの快適な都会生活をしていたプチブルたちが、突然ふところをつつかれて立ち上がっただけ」というつぶやきが聞こえる、そんな状況だ。
*注@…出典:Feijoo, C. y Salas Otono,L., et al.(2002) Que son las asambleas populares. Buenos Aires: Continente. *注A…出典:Perez, German J., Armelino, Martin y Rossi, Federico M.(2005) “Entre el autogobierno y la representacion. La experiencia de las asambleas en la Argentina” en: Francisco Naishtat(comp.) Tomar la palabra: estudios sobre protesta social en la Argentina contemporanea. Buenos Aires: Prometeo.