[コラム] 迫共(さこともや)/売春窟の子どもたちを描いた映画から
他人の生活に介入する葛藤に向き合ったのか?
『未来を写した子どもたち』という映画を見た。原題はBorn Into Brothels: Calcutta's Red Light Kids(売春窟に生まれて/カルカッタ売春地域の子どもたち)。
迷路のように入り組んだカルカッタの売春窟で生まれ育った子どもたち。母親や姉は売春婦として暮らす。父親は朝から酒やドラッグに溺れていたりする。子どもたちは朝早くから井戸に水を汲みに行く。ゴミが散乱する家で家事をこなし、幼い弟や妹の面倒をみながら、春を買いに来た客に茶や酒を出すのも子ども達の仕事だ。
この売春婦たちの取材にニューヨークから訪れた女性カメラマンは、子ども達にカメラを与え、動物園や海に連れ出して写真を撮らせる。子ども達はそれまで写真で自分を表現するなど思いもよらなかった。
一人の子は才能を認められ、児童写真家の国際イベントのためにアムステルダムへ招待される。またインドで行われた写真展やオークションの収入で、一部の子は学校に行くことが認められた。しかしその後、学校を辞めた子、売春婦としての仕事についた子もいるというのが映画のエンディングであった。
子どもたちの強烈な笑顔や自由な発想で撮られた写真が印象的だった。「この子たちをなんとかして救ってあげたい」という製作者側の強い思いもよく分かったし、その働きは感動的だった。
その一方で、他人の生活全般に立ち入って改善することへの抵抗感はなかったのかという疑問も起こった。
無教育な親達や学校制度の壁などは描かれているが、人の生活にどれだけ立ち入ることが許されるのか、その葛藤に対して監督たちがどのように向き合ったのかがあまり描けていなかった。カメラマンは映画中にも登場するが、その割り切れない苦悩を語ってはくれない。他人の生活を生涯に渡ってサポートし続けるなんて、容易ではないはずだ。
そして、外国人の目からはいかに「悲惨」に見えたとしても、子ども達にすれば唯一の現実であって、変えるべきものと思われていないかもしれない。もちろん彼らは外の世界を知らないし、生活を変える術も持っていないのだけれど。
それよりも、教育や近代化によって豊かになることを善と捉える視点だけでよいのか?と疑問を持ってしまった。どんなに「悲惨」な生活でも、その中にいる人間はそれなりに楽しみを見つけてしまったりするものだ。僕はこの映画に出てくる子どもたちの明るさや力強さの印象が強く、正直なところあまり心配を感じなかった。
もちろん慈善をダメだと言いたいのではない。この映画の収益は一部が子ども達に贈られるそうで、援助の在り方の様々な可能性を考えさせられる。しかしそれも万能ではない。どのような援助を続けるかには、大胆さとともに自分を見つめなおす慎重さが求められると思う。
『未来を写した子どもたち』はDVDで発売されており(アットエンタテインメント)、子ども達の作品もポストカードブック『未来を写した子どもたち』(朝日新聞社出版)として出版されている。