[情報] 映画評/『沈黙を破る』
──評者=木下達也
音楽もナレーションもなく
過日、京都大学の岡真理さんを招いてガザ報告集会を開いた時、是非観ておくべきだと言われた映画、「沈黙を破る」(土井敏邦監督作品)を観ました。
音楽もナレーションもない、そのフィルムの断片が、パレスチナの現状を生々しく切り取り、そこに暮らす人々の姿がモンタージュされていました。
2002年春、イスラエル軍がヨルダン川西岸へ侵攻した時の、バラータとジェニン難民キャンプでのパレスチナの人々の映像から始まるこの映画は、土井さんの二十数年にも渉るパレスチナ記録の、数百時間に及ぶ膨大なドキュメントの中で完成された、4部作目にあたるプロパガンダ映画です。
イスラエルの兵士たちの証言を交えた映像は、観る者に「遠い国の無関係な出来事」ではない事、かつて占領者であった日本の事も改めて考えさせられる契機になりました。地域の市民活動で、「従軍慰安婦問題」の議会採択に向けて取り組み始めた矢先なので、余計にそのことを考えさせられました。侵略と占領の事実を拒否して、日本はどんな社会をめざしてきたのでしょうか。海賊退治の名目で、ソマリア沖に自衛艦を派兵し、平和憲法を蔑ろにし、「平和の為の軍隊」を掲げて、日本はどんな社会へ進もうとしているのでしょうか。
パレスチナでも、かつてアラブ人とユダヤ人は共生していたのです。捏造された「約束の土地」を神話にし、ここ百年あまりの事を、あたかも何千年もの宗教戦争のようにカモフラージュするシオニズムに翻弄されてきました。
「沈黙を破る」とは、イスラエルの元将校たちが、占領地での自らの加害行為を告発する、テルアビブで開いた写真展のタイトルです。「世界一道徳的な軍隊」と呼ばれる彼らイスラエル兵が、軍の規律と秩序のなかで、アンビバレンツに引き裂かれ、いかに非人間的な暴力装置に変化してゆき、人間性を破壊していくのか?イスラエルはパレスチナの「拳」だと語り、真の勇気を持って、小さな流れを起こそうとした、その生の言葉がフィルムに焼付き、その彼らの語る言葉のひとつひとつが、私たちに、占領という名の構造的暴力を有する軍隊の実際を伝えていました。
「考えるのをやめたとき、いかに彼らが怪物になったのか」そして、振り下ろされた「拳」に対して、悲しい現実ですが、インティファーダの抵抗運動を続けるしかパレスチナの人々には残されていないのです。「灰とダイヤモンド」「ルシアンの青春」でも描かれていたように、力への過大な信仰が青年を軍隊へと誘い、関係性の破壊が戦争を是認してしまう。映画「沈黙を破る」は、国境を越えて、社会の「暗部」とそれをささえる人間の「心の闇」をも映し出していました。
08年12月27日に始まったガザ攻撃は、1月19日に停戦しましたが、1300人以上の死者と、5000人の負傷者を出し、ガザの町は今も瓦礫のままです。そして、パレスチナ人も、イスラエル人の心も今もまだ瓦礫のままなのです。
そぼ降る雨の中、劇場を後にしましたが、そう言えば前回ここを訪れたのは、「赤軍・PFLP世界革命宣言」を撮った若松監督の最新作「実録・連合赤軍」を観に来た時でした。その時も今回も町は雨でした。鉛のように重い、得体の知れない感情を抱えたまま、私の中の『瓦礫』にも雨が降り続けました。