[コラム] 迫共/「性」と「産」と「育」
私の職場、保育園でも毎年、何人かの職員の異動がある。今年も退職する保育士のかわりに新卒者を2名採用した、はずであった。
年度終盤の3月末、内定に対する就職承諾書を受け取っていた女子学生から就職取り消しの相談が入った。
なんと、妊娠したらしいのだ。親御さんも学校の先生も来園されて平謝りされた。心中を察しつつ「まぁおめでたい事じゃないですか」とは言ったものの、急遽採用しなおすことになった。友人との雑談で「20歳にもなればどうすれば妊娠するかということは分かるはず。自己管理できない人なら入職しなくてよかったかも…」と私が口走ると、「100%の避妊法はないんだから」とたしなめられた。 その通りだ。知識としては知っているのに、そして彼女のプライベートなど知る由もないのに、「無責任な行動の結果」と勝手に判断してしまっている自分に気づかされた。
乳幼児の命を預かる立場である以上、「うっかり妊娠」というのはどうも抵抗がある。だからといって、それが個人の行動についてあれこれ口を挟む理由にはならないはずなのに。保育に関わる人間は、つい保守的になりがちだが、自分もしっかりその轍を踏んでいることを思い知らされた。
以前、保育園を利用する子の母親と父親、保育士の3者で、性別役割意識を比較した調査を見たが、保育士、父親、母親の順で性別役割意識が強いとのことであった(神田直子ほか「保育園ではぐくまれる共同的育児観」、『保育学研究』第45巻第2号、日本保育学会、2007)。
業界的には多くの保育士が結婚や妊娠を機に退職し、子育てが一段落してから復職という道をたどる。産休・育休が職場に認められず、妊娠を機に退職を余儀なくされる保育士も少なくない。 私の園では産後に正職に復帰した保育士もいるが、こんな園でさえ少数派のようだ。
ちなみに保育士の多くが「自分の子は(少なくとも1歳頃までは)自分で育てたい」と思っているようで、これはこれで職業意識と母親意識の交錯が興味深いのだが、パートナーの稼ぎが少ない場合は、子どもが好きなのに自分の子どもが持てないという皮肉な状況にもなりかねない。 働くお母さんの味方である保育園スタッフが、自分の子どもを持てないというのはどうなのだろうか。
「性」と「産」と「育」。かつてこれらは、ひとつながりのものとして日常の中にあった。「産」や「育」に際しては地域や親族のネットワークが支えあい、知恵を出し合っていた。今日では専門家に委ねる事が当たり前になって個別化が進み、いっそう他人が触れてはならない事柄となったように感じられる。
だが「育」に関わる専門職である保育園職員は、かつてのネットワークの代りをする場合もある。私たちは子どもだけでなく、保護者や保育士とも毎日接しているからだ。「性」と「産」と「育」のつながりに意識を向けつつ、ひとを型に押しこめない多様な生を提案できる専門職でありたいと思う。