[コラム] 深見史/「おひとりさま」ではない「ひとり」を
外国人研修制度から人の生き方を考える
外国人研修制度というものがある。この欄でも何度か取り上げたが、簡単に言えば、「国際貢献・技術移転」という美名のもと、若い外国人労働者を超安価労働力として使う制度である。この「超安価」というものがどの程度のものなのか、というと、初めて研修制度と出会った人がたいていひどく驚愕するほどのもの、である。
私が最初に研修制度を知ったのは10年前、あるスリランカ人から相談を受けた時だ。その時聞いた「超安価」は月収5万円だった。月収5万円で働く日本人はいない、研修制度とは完全な虚構であり、内実は残業代も支払われない奴隷労働ではないか!と、義憤に駆られたものだ。この案件は、未払い研修手当を求める訴訟で満額を勝ち取ることで一応は片が付いた。
それから断続的に、様々な研修生とその境遇を知ってきた。そのたびに、「超安価労働力」の実態を知り、そして、なんと、慣れてきたのである。「月収4万円でした」と聞いても、「あ、研修生ってそんなもんだね、それでみんな朝から夜中まで働かされたりしてるんだよね」と、あっさりと言ってしまう自分に改めて驚いたりする。
ところが、先日相談に訪れた元研修生の「超安価」率は、「慣れ」て鈍磨した私の義憤を蘇らせた。彼の「研修手当」は、「1日500円」だった!英語で書かれたその契約書を何度読み返しても間違いない、はっきりと「500yen/day」書かれている。残業も当然あったという。時給にすれば、なんと、50円から60円位ではないか!
彼は研修期間を超過して日本に滞在している。どうして残ったの?と聞く私に、彼は答えた。「友達がいるし、日本が好きになったから」。
不当にも時給50円で働かされていた人間が、「日本を好きになった」とは、あまりに説得力に欠ける話ではないか。しかし、それは彼の本心の一部であることは、その後の話の中で読み取れた。彼は、1日500円の「研修」労働を終えた後は、あちこちで働き、母国にいる多くの兄弟姉妹たちを学校に行かせることができた。日本で恋人もでき、貧しくとも幸福な生活を手にいれたのだ。日本は彼の希望を叶えてくれた、とも言える。
現在の彼の雇用者は、彼が摘発されることを非常に恐れている。彼は貴重な信頼できる労働力だからだ。「彼のように何でもやる若者はいないからね。うちの大事な戦力なんだ」と、雇用者は彼への信頼と理解を一生懸命語った。
それはそうだろう。社会保険の会社負担分の心配もないし、暇な時は休ませることができるし、多忙な時はいつでも呼び出せる。「賃金が安い」と文句を言うわけでもなく、労組に入ることも、デモや集会に行くこともない。
彼の、ほんの少しの不安と大きな幸せを表現する顔を見ると、ああ、と嘆息してしまうしかない。人々の「連帯」とはどこで見いだされて創られるものだろうか、としみじみ考え込んでしまう。
貧しさについて多く語られるのは、好ましいことだ。本来の人の生き方を根底から考えなくてはならないのが「この時代」だとすれば、それはまたある意味、非常に良い時代とも言えるだろう。型にとらわれない、自由な、多様な、生き方と働き方が模索されるのは、良い事に決まっている。型にとらわれず、自由に、多様に、生きられないのが現実だとしても。
かつての「結婚できる賃金を!」などという類のお間抜けなスローガンの復活を極度に恐れている私は、しかし、「1人で生きていける賃金を!」という言葉も同じくらい恐れている。国家が期待する「夫・妻・子」の、退屈で犯罪的な生活像基準に対置するのは「ひとり」しかない。しかし、その「ひとり」は孤立や孤独とは無縁でありたい。
「おひとりさま」としゃれ込んで、超具体的なひとり暮らし法をもくろむのではなく、「ひとり」の意味を確立したい。「ひとり」が人と共に生きていく方途をこそ模索したい。