[海外] パレスチナ/第3次インティファーダの形成
10月29日 「アジア・タイムズ」「ザ・パレスチナ・クロニクル」創設者 ラムジー・バルード
過酷な状況下での胎動 公正・平和・自由求め
最近出席した会議で、私は、第3次インティファーダの可能性について何度も質問された。一見単純な問いかけだが、内に罠を含むような重要な質問なので、とても数分で答えられるものではなかった。
「第3」というからには、「第2」は終わったということになるのか?あるいは勢いが弱まり、焦点と方向が曖昧になったというのか?そのエネルギーが内部抗争で浪費されてしまったと見るべきか?
確かに、初期の指導者が姿を消しているし、参加者の多くは立場を変えたり、戦列を抜け出したりして、もはや結束した大衆闘争とは言えない。
パレスチナ人大衆反乱は、例えば信託統治国イギリス、シオニストの植民計画、イスラエルの占領などの外部からもたらされる災厄への反応に留まらない。よく見落とされがちだが、大衆の怒りはパレスチナ指導部の失敗・分裂・転向・堕落・馴れ合いなど、内部要因へ向けられることもある。
1987年蜂起(第1次インティファーダ)は、後にパラダイム転換(オスロー合意・93年)が起きたとはいえ、その典型であった。基本的には67年以来のイスラエルの占領への抵抗であったが、同時にそれは長年外部の指導部(ヨルダンから、次いでレバノンから、そして弱々しかったがチュニジアからのPLO指導)の支配から脱し、パレスチナ解放闘争を本来の姿に戻そうとする民衆の叫びでもあった。占領地パレスチナ人の間には、自分たちの悲惨な状態が、アラブ諸国の各首都に基盤を置くパレスチナ派閥勢力の間の抗争の道具に利用され、しかもその抗争はイデオロギー的なものでなく、単に支配欲、金銭欲、地位欲をめぐる争いにすぎないという認識が広く行き渡っていた。
第1次インティファーダで形成された思想、闘争形態、象徴は、すべて《パレスチナの結束》という目的を表していた。「民族統一」を強調したのは、指導部の不統一と派閥争いを批判する意図の表われであった。
この第1次インティファーダに対するイスラエルの弾圧は過酷であったが、2000年の第2次インティファーダに対する弾圧はもっと過酷であった。前回に懲りたイスラエルは、大衆の全面的参加の長期反乱に発展しないうちに抑えたかったからである。
さらにイスラエルは、「インティファーダはアラファトがイスラエルから譲歩を引き出すために仕掛けたもの」という誤った理解にもとづいて行動した。実際は、イスラエルにもパレスチナ自治政府(93年のオスロー合意の後に結成され、外国帰りの長老が権力の座についた)にも不意打ちをくらわす形で、インティファーダは発生した。大衆は、イスラエルの占領に抗議すると同時に、あやふやな姿勢と汚職・腐敗にまみれた自治政府に抗議して街頭に躍り出たのである。