更新日:2008/09/15(月)
[コラム] 津村喬/エストニア独立回復運動から20年
「のっぽのヘルマン」の手つなぎ
タリン(バルト海に面するエストニアの首都)の古城に通ずる道をゆっくり上がった。正面に議会らしからぬピンクの壁の宮殿があり、その左手に広い庭がある。宮殿の庭と言うにはいかにも質素だが、花がよく手入れされているのはわかる。この庭の一番外壁に、宮殿で最も高い塔である「のっぼのヘルマン」がある。塔の尖端には青白黒のエストニア国旗が翻っている。
ソ連の時代には、それは夢だった。「いつかあの塔に自分たちの旗を立ててやる」とエストニア人の誰もが思っていた。1988年、それは実現した。エストニア人は「独立」という言葉を嫌う。ただ占領状態が終結しただけだと。実際にソ連軍が撤退したのは94年のことだが、占領下に自分たちの旗を掲げても「ソ連の力ではもうおろせない」という状態になったのが88年のことだった。この夏、何人かの日本人を案内したのだが、こんなことがあったのだと言ってみても、その思いはなかなか伝わらない。
3度目にエストニアを訪ねた89年の8月のことだった。迫り来るソ連の戦車に対して、バルト三国みんなで手をつないで意思表示しようということになった。もともと握手は「武器を持たない」の意味だが、手から手へとつないでいくのは、戦車に対して素手で、ただ心をつないで対抗するという意味だった。タリンからラトビアのリガ、 そしてリトアニアのヴィルニウスまで手をつないだ。それぞれの国民の3分の1ほどが実際に参加し、100万人の人間の鎖となった。その人の列の始まりがこの「のっぽのヘルマン」だったのだ。
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