[コラム] 栗田隆子/ひとであること
「運動」入門一歩前(そのB)
今よりも涼しい私の小学生時代の夏であるが、それでも海やプールによく遊びに行った。この日もそうやって過ごす筈だった。しかし海岸に辿りつくまであとほんの数十メートルの道路で、よそ見運転の車が私達を跳ね飛ばした。
当時七〇歳の祖母は、全身打撲で即入院、40日間の静養を要した。
その間の見舞い客で忘れられない女性がいた。「サバサバしたショートカットの女性」という第一印象。私と特別何かを話したわけではないのだけれど、「おばあちゃん」という印象とはあまりに程遠い佇まいがひどく印象的だった。彼女は「ふじ子さん」と祖母から呼ばれていた。
その翌年にふじ子さんは脳梗塞で亡くなった。彼女が亡くなったときに北海道新聞は下記のような報道をしていた。
「(前略)旧姓は伊藤ふじ子。昭和8年、小林多喜二が中央公論に発表した地下生活を描いたとされる『党生活者』にハウスキーパーとして登場。これをめぐり『伊藤は小林多喜二の妻であった』とする日本共産党側と『ハウスキーパーだった』とする平野謙氏ら評論家グループが歴史論争したことがある。(後略)」(澤地久恵『完本 昭和史のおんな』より引用)
祖母は後に我が家に本を送ってきた。澤地久枝(最近では9条の会立ち上げの発起人となった作家)の本ばかりだった。祖母はその澤地久枝の『完全昭和史のおんな』のなかの「小林多喜二への愛」という章をめくりながら大事なことを伝えてくれた。
「この章に出てくるふじ子というのは、あのふじ子さんでね。多喜二の恋人だったのよ」と。多喜二とはあの『蟹工船』の「小林多喜二」だった。ふじ子さんと祖母はまず甲府女学校(そこは太宰治の妻である石原美智子もほぼ同時期に通っていた)で出会い、昭和初期の東京でプロレタリア運動に関わったのだろう。祖母も拘留の経験があったようだが、祖母からマルクスの匂いを感じることは後年ほとんどなかった。何せ昭和天皇「崩御」直前に、彼女はお見舞いの「記帳」に行ったくらいだ。
当時の運動に関わっていた人間のなかでどれだけの「マルキシスト」がいたかは分からないが、それは今のフリーターの運動においても通じるのかもしれない。後年このムーブメントに対してどんな眼差しが向けられるのだろう。
『蟹工船』がこれほどのブームになるとは誰も想像しなかったが、しかし現在ふじ子さんについて語られることはまずない。多喜二の『党労働者』には、「工場の色々な女工さんの品さだめをやって帰って行った。彼は何時の間にか、沢山の女工のことを知っているのに驚いた。『女工の惚れ方はブルジョワのお嬢さんのようにネチネチと形式張ったものではなくて、実に直接且つ具体的なので困る!』」と書かれた箇所がある。女性労働者に対する活動家の眼差しは、男性労働者への眼差しとは相当違っていた(今はどうだろう)。しかし、多喜二への愛情やその後の生協活動への関わりを見れば、ふじ子さんの地道な働き振りに対しては頭が下がる思いだ。
小林多喜二といえば、獄中死という酷い最後が印象的だ。悲壮感いっぱいに多喜二は語られがちだ。しかし生前の彼は非常に面白い人だったようで、『完全昭和史のおんな』に書かれたエピソードによると、多喜二は「高田の馬場の駅」(ママ)で、自分がいる段の二段上の階段に下駄の歯が落ちていたのを見て、絶対に自分の下駄の歯ではないはずなのに一生懸命自分の下駄の歯に合わせようとしたらしい。それをみていたふじ子さんは笑い転げてしまった、と。彼女自身がまず「ひと」であり、さらに「ひと」としての多喜二を伝えようとした。それは何が大事で「運動」するかを私達に思い出させてくれる。