[反貧困] 座談会/ニート・引きこもり・野宿者・女性…どうやって生き延びるのか?
はじめに
本紙新年特集「フリーター運動座談会」(1299〜1301号)やフリーターメーデー特集「プレカリアートは連結・増殖する」(1311〜1313号)などで、フリーターなど若い労働者の新たな運動を報じてきた。
ここでは、「働く若者」だけでなく、「ニート」・「ひきこもり」と呼ばれる若者たちにも注目すべき動きがあった。それらは従来の労働運動から「こぼれおちている」人々からの告発ではなかったか。もはや労働運動はこうした若者たちの存在を無視することはできない。
さらに生田武志さんが「ひきこもりは、不登校の労働版じゃないか」と言うように、不登校を生きる若者、かつて不登校であった若者たちも重なり合っていることに気づく。こうした若者たちはまた、「野宿者予備軍」でもある。
これらを「つなぐ」ことで、若者の運動と、「生きづらさ」の問題、居場所と関係の喪失の問題の連関をつかむことができるのではないか。運動の課題を明確化し、共闘の可能性を探ることができるのではないか。
こうした目的のもとで、6月19日、人民新聞社にて座談会を企画した。(編集部)
「撤退」を選ばざるを得ない社会
中桐…まずコムニタス・フォロの山下さんに、ひきこもりの若者たちの労働をめぐる状況からお願いします。
山下…私は不登校に長らく関わってきましたが、不登校も、不登校その後が大きな問題になっています。ひきこもりやニートという現象、あるいは若者の労働問題や野宿者問題と不登校との関わりをどう考えるかは重要だと思います。
ただそれは、不登校経験者だけじゃなくて、高学歴者であってもひきこもりする人はいるんですね。厚生労働省の調査では、ひきこもっている若者の3割が不登校経験者だと発表されましたが、逆に言えば、7割は、小中学校時代は休まずに学校に行っているわけです。ですから、学歴差別だけで考えると問題をとらえ損ねるんじゃないかと思います。学歴差別が問題なのはもちろんですが、当事者の側から「やっていけない」と感じ、「撤退する」という側面もあると思います。
フォロに来ている若い人の状況はまちまちです。大半は家族の支えがあります。療育手帳や生活保護、精神障がいで年金をもらっている人もいれば、フリーターの人も、仕事を探している人もいます。
中桐…KY(くまもとよわいもの)参加者の仕事や生活の状況は?
馬野…熊本では、ひきこもりの自助グループや若者サポートステーション(厚生労働省の委託事業として、全国で実施)、精神保健福祉センターのひきこもりデイケア等に通っていました。
そのうち、「熊本でも何かやりたい」と思い始めて、最初は「バレンタイン粉砕デモ」を考えていましたが、それがちょうど2月10日だったので、「これはニート(2月10日)の日だ!」ということで、「ニートデモ」の実行委員会を立ち上げました。デモには自助グループやデイケアの人たちの他、FUF(フリーターユニオン福岡)メンバーや、北九州で知り合った不登校やメンヘラーの友だちも来てくれました。
「バレンタイン粉砕デモ」を企画していた理由は、ひきこもり・メンヘル界隈で見過ごされがちな「非モテ」の問題なんです。秋葉原の事件の容疑者も非モテでずいぶん悩んでたようです。カネがない、病んでる、対人関係が苦手だ、モテない、恋愛できないというのが相当悩みで。
ニートとか非モテとか世間からバッシングされるような人たちが、「自分たちも言いたいことを言い返そう」と、スローガンも「言いたいことがある」になりました。各自マイクを回して自由に主張してもらい、アニメの音楽を大音量でかけながら、踊ってデモしました。
次は全国的なフリーター・メーデーで、「ニート・ひきこもり・メンヘラーを中心にしたメーデーをやろう」という話になりました。実行委員は女性が多く、全員が不登校経験者で、精神障害者手帳取得者が半数。リストカット経験者も多く、オーバードーズ(薬の多量摂取)の経験者もいます。
イダ…その後はどうですか?
馬野…デモに参加して「開放感を初めて味わった」という人もいます。「自分が弱者であることが、こんなに気持ちいいと思わなかった」という感想もありました。
鍋谷…実行委員に女性が多いのは何故ですか?
馬野…デモに来てくれたのも女性の方が多いですね。呼びかけてるのが女性だからかもしれません。
生田…あえて「ニート」って言葉を使うのは、何か意図があるんですか?
馬野…「ニートで何が悪い」「働かなくて何が悪い」っていう思いはあります。「働けない」と同時に、「働かない」というのもあるんです。
交流会に来てくれた人たちの中で、30代後半や40代後半のひきこもりの人たちがいたんですが、リアルに生死がかかってる状況がありました。「親がもう先が長くないだろう」とか、「親の年金と貯金で暮らしてきたけど、もう尽きてしまう」とかです。それで、生活保護の学習会をやりました。「高齢」のひきこもりが見え始めたのと、自分自身の将来を思ってですね。
私はやはり働けない。親が死んだら、野宿か餓死か、生活保護か刑務所かしかありません。最悪の事態を防ぐためには、生活保護しかない。野宿者支援団体の人に講師を依頼しましたが、「就労をあっせんしてくれと言うならともかく、生活保護とは何事だ」という反発もあったみたいです。心ある方が引き受けてくれたんですが。
今まで野宿者支援団体とメンヘル・ひきこもり界隈とは接点がなかったと思うんです。野宿してからは構ってくれますけど。私としては、自分自身の生存もかかってるので、なんとか水際で食い止めたい。そういう意味で、働く努力とは別の、生活保護の勉強会で生き延びていけないだろうかと思いました。
いかに声を届けるか、受け取るか
中桐…吉岡さんの問題意識として、「声を届けることすらできない人たち」と言いますか、孤立無援の状態に置かれた人たちの存在があると思います。Souiのことを教えていただけますか。
吉岡… 「Soui」は、06年に30代の「女性」2人で始めました。不登校やひきこもり経験者は、適応指導教室や精神科やフリースクールや親の会など既存の機関を経由しない限り、お互いが直接出会うことがありませんでした。「仲間と出会う」のも、容易なことではなかったんです。
一例を挙げれば、Souiのメンバーの中で、パソコン持ってない人がいます。高価なパソコンを買えないという現実です。インターネットでつながる可能性というのがあって、パソコン持ってる人がどんどんつながってるという現象があるのに、そうでない人がいるので、その辺どうしたらと考えています。
あるひきこもり支援団体の主宰者に「女性はいないんですか?」と聞いたところ、「女性を入れると恋愛トラブルが起こるから」と答えが返ってきました。その人は「女性は結婚したら終わりだからね」と言葉を続けて、私は「ブチッ」と切れてしまいました。ひきこもり界隈でも、女性は排除されて続けているんだ、と。
10代から不登校・高校中退仲間に自殺者が何人もいたこともあり、これ以上死者を出したくないので「本当はひとりぼっちじゃない」「仲間と出会うのはタダでもできる」と呼びかけ続けることにしたんです。
馬野…熊本でもネットでの告知だけじゃなくて、デイケアとかサポステで知り合った人にビラを渡したり、若者が居そうなライブハウスとかクラブ、ネットカフェや中古CDショップなどの貧乏人がたむろしそうな場所でビラを配るとか、アナログな方法もやってます。
中桐…Souiではどんな人と出会って、どうやって当人のネットワーキングを作ってきましたか?
吉岡…私は高校中退後の16歳ごろから「安い・危険・キツイ」仕事もしていましたが、職場では夫とDV離婚・死別したパート「女性」たちとも一緒でした。私にとってその人たちは、何度となく「あなた若いねんから、もっと『いい仕事』あるやろ」と言うお節介な人たちでしたが、例えば職場のセクハラから守ってくれたりもする有難い存在でもありました。
その人たちからは、不登校やひきこもり以前に「女性」がひとりで生きていく現実の厳しさを教えられ、少なくない女性にとって結婚とは、「自立」の一時留保に過ぎないのかもしれないと思いました。
「不登校」と一口に言ったところで、当人にとってはその議論の中身がその後生きていく上で、具体的に役に立つものであるかどうかが吟味され優先されます。例えば、これまで、山田潤さん「『不登校』だれが、なにを語ってきたか」(『現代思想』02月4月号/青土社)や、貴戸理恵さんの『不登校は終わらない』(新曜社/04年11月)、雑誌『こころの科学』「特集・ひきこもり」(日本評論社/05年9月号)における上山和樹さん、貴戸さん、山登敬之さんなどの議論の蓄積がすでにありました。当人か「居場所関係者」か「社会学者や医者」といった各立場には、それぞれに利害と欲望があります。
誰がどのように言おうが自由ですが、各人各様の経験に過ぎない「不登校」「ひきこもり」を代表することにそもそも無理があります。「不登校の何を、なぜ、どのように問題にするのか・したいのか」は、相対的なものでしかなかったのではないでしょうか。
当人同士の「親密圏」内でもそれは同様にあります。「私たちは同じ不登校経験者」と言う時、どれほどその「私たち」が同じなのかといえば、たしかに小・中・高校のどれかに行かなかったり辞めたりした経験は共通しています。
けれど、そもそも不登校だった時期が小学生だった頃の人と高校生だった頃の人とでは焦点が違いすぎるし、性別や最終学歴などによっても、日常的に受けている差別も感知できることも違います。話題も議題設定も当然異なる上に、地域性や家庭の経済力や情報や運など、様々な要素によっても異なってきます。
ところが当人にとって自分の一生に関わることであるにも関わらず、不登校を肯定しようが否定しようが、いずれにせよそこには、必ずほかの誰かの解釈が入っていました。しかし、それはすでに当人の手を離れていましたし、疎外もされ、必ずしも当人の役に立つものではなかったことも多いのです。
だから、Soui発足当初から会の方向性や運営方法などの一つ一つを丁寧に話し合い、自分たちがこれまでやられて嫌だった「代弁すること・されることはしない」というルールをつくり、現在生きている自分たちにとって具体的に役に立つことを考え、参照し合う場をつくりました。
1年目の例会では「弱者内序列」という問題が浮上しました。大きな声が小さな声を回収し、各当人の問いやまだ芽吹いていない創意を先回りして摘む暴力。どうやれば互いの違いを尊重し合い、つながることができるのか。悩んだ挙句、例会の解散を検討し、メーリングリスト(ML)で話し合いました。
それをきっかけに、それまで一度も発言したことがなかった人が発言するようになり、何をどう考えているのか、MLで全員が立会うことになったんです。告白を強制するわけでも相手の領界に土足で侵犯するわけでもなく、「一言も意見を言うことなく去っていく人」を出さないようにするのに、2年かかりました。
「学校に行かなかったことがある」以上の意味を共有してはいませんし、しかもその記憶も年々遠くなりながら現在を生き続けています。個々ばらばらな環境で育ってきた人たち同士が顔を合わせるわけですから、言葉の意味から一つずつ確認し合うことになります。同じ日本語で喋っているとは思えないほどギャップがあることや、1つの物事を巡っては、まったくちがう見え方をしていることがお互いに分かります。MLで意見を述べる人が誰かに偏ることなく、これまでになく直接発信する人が出てきて多彩になったことがうれしいですね。
Souiは約1年で10人くらいになりましたが、その約半分が福祉関係の仕事に就いています。約7割が中卒や高校中退経験者で、うち大検(現・高卒認定)で大学に行った人もいます。
約10年ひきこもってたと言う人が3人いますが、アルバイト経験はあります。アルバイトとひきこもりを往復している人が、「ひきこもり」と名乗っている。「働けない」ことも含め、労働の問題が共通しているのかもしれません。
馬野…熊本のひきこもり界隈でも、全く就労経験がない人はいませんね。
吉岡…ひきこもりって言うと、部屋から一歩も出ないというイメージを持たれますが、むしろそういうひとを見つけるのが難しい。
馬野…そうですね。逆に少数派。
吉岡…あのイメージは偏ってますね。「アルバイトやってたよ」って人は、やっぱり労働として、低賃金の上にきつかったりして、続けられなくて、しんどくなって辞めて、働きたくない状態が続いているんです。
「孤立無援」な人との出会い
中桐…「孤立無援」な人との出会いを、Souiではどのように創っていますか?
吉岡…発足当初の会議では、各自の生活があるので、窓口対応をあらかじめ少なく見積もり、広報は顔の見える口コミを基本とすることを話し合いました。
参考にしたのはセクシュアル・マイノリティなどのグループで、当人が自力である一定程度までたどり着くことを前提にしています。携帯もインターネットなどなくても、ビラや口コミなどでこれまで何とかして人はつながることができたわけで、例えどんなに極限的で拡散し孤立状態であろうと、あらかじめ人間に備わる、各自の潜在的な問いや、お披露目前の思考や創意工夫や知恵はあります。
そういう力を信じる意味でもネット上ではなく、ビラの代わりとなる紙媒体(ミニコミ)を発行し、公共施設などへ設置したり、名刺代わりに手配りしています。
中桐…例会ではどんな話をするんですか?
吉岡…仕事の話や家族関係が話題になります。メインは、「どうやって食っていくか、生き延びていくか」という話です。それから「精神的な病とどう向き合っていくか」ということですね。
「あがり」という問題
生田…先ほど「女性は結婚したら終わりだから」という発言が紹介されましたね。10年ほど前の不登校新聞で、結婚して子どもを抱えた女性が取り上げられていました。この記事を読んで栗田さん(フリーターズフリー)は、女は結婚したら「あがり」なのか!と腰を抜かすほど仰天したそうです。
馬野…結婚しなかった人は、リアルに死んだりしてるんじゃないですか?
生田…そうかもしれない。これが男の場合だと、「今は正社員でがんばって働いてます」となるんでしょう。つまり、すごろくの「あがり」が「女は結婚。男は正社員」。
子どもにとっては「学校=社会=私」という状況があります。だから、「学校に行ってない」というだけで自分の社会的な存在が否定されるような扱いを受けてしまう。それが大人になると、「家族」や「賃労働」の問題になるわけです。
不登校新聞の記事は、「学校からは外れたけど、結婚して母親になった」。それが男だと「いまは会社で一人前に働いている」いう流れになるわけです。不登校が提出した問題が、どこかで「解消」されているのではないだろうか。結婚や就職が「あがり」でいいのでしょうか?
僕は野宿者問題に関わっていますが、確かに就職は重要です。多くの野宿者は「仕事をしたい」と言っています。しかし、いったん野宿になると、なかなか元には戻れません。「住所がないと、ハローワークが相手してくれない」とか、「仕事が見つかっても、給料支払日までの生活費がない」等の壁があって登れないわけです。
「壁になってるなら、段差をつければいい」というわけで、例えば服を貸したり、金を貸したりして、壁を階段にして登っていけるようにしよう、とする「野宿者対策」がありえます。でも、登った果てにあるのは、結局「元の社会」です。これが「社会復帰」「自立支援」と言われますが、果たしてそれだけでいいのか?
就労は「イス取りゲーム」です。誰かが登ったら誰かが落ちる。だから「社会復帰」する社会そのものを考え直すことが必要になります。
ひきこもりの支援でも同じパターンがあります。就職のための階段を作るのは重要ですが、階段の先の社会とは、極端に言えば過労死とワーキングプアの二極分化だったりする。こんな社会に復帰して、うまくやっていけるのかな、という疑問が残ります。
現在は、自分が自分でいられる居場所が学校にも家庭にも地域にも会社にもないという「関係の貧困」と、「経済的な貧困」が拡大して接触し始めています。「生きさせろ」という言葉がありますが、求めるべきものは「活きさせろ」ということなのではないか。経済の貧困の解決と同時に、関係の貧困の解決を求めるべきだと思います。
たとえば賃労働をある程度やりつつ、ぼくたちがLLP「フリーターズフリー」でやってるような協働事業をやりつつ、足りないぶんはベーシック・インカムの縮小版で行政が補てんするという形など、いろんな組み合わせや可能性があると思います。
休憩
馬野は「ひきこもり気味のニート」である自身の生存にかかわって、「働く努力とは別の方法で生き延びること」を訴えた。吉岡は仲間と出会うことすら困難なひきこもりの生存から、「当事者」が発信することの困難と試行錯誤を報告した。生田は「女は結婚、男は正社員」というすごろくで言う「あがり」モデルから、就労支援を受けて「社会復帰」する社会そのものを考え直すことの必要性を述べ、「経済的な貧困」と同時に「関係の貧困」の解決を求めるべきと課題を提起した。(編集部・敬称略)
あがりについて
山下…少し前まで「あがり」と思えてた「結婚」「就職」が「あがり」ではなくなって、そこを目指して学校へという構図も、自明ではなくなっているわけですね。何を目指してがんばるのか、「あがり」が見えない。
ひきこもり支援・ニート支援の多くは就労支援ですが、就労したら「あがり」なのか? という問いもないままに、幻想を背負うことでおカネが動いてるという面があります。それを私は批判的に見ています。
そういう意味では、不登校の当事者運動の中で「学校に行かなくても社会でやっていける」と語られる中で、期待や幻想を背負い込んじゃった面も、自己批判的に見ないといけないと思っています。
私が問題にしたいのは、社会とは何か、ということです。家族以外とのつながりを失い、孤立してしまうことが問題です。しかし、社会とのつながりを回復するための手段は賃労働しかないのでしょうか?
家族と賃労働以外の場でも、つながり合える関係が求められているのだと思います。そういう関係も社会関係です。
「あがり」のパターンの変化
山下…コムニタス・フォロでは、「ひきこもりって言うな!」と言っています。
ひきこもりも、構造的に生み出された問題です。それを「ひきこもり」という名詞にしてしまうと、「その人たちの問題」という話になってしまう。
不登校に関して言えば、フリースクールを見学に来た人たちが「なんだ。普通の子たちじゃないですか」って感想をもらすことが今でもあります。「じゃあ、どういう子たちだと思ってたんですか?」ということですね。
藤室…「ホームレス」って言葉もそうですね。
山下…ホームレスの人だって、ずっと野宿しているとは限らないでしょう?ドヤに泊まっていることだってある。不登校もひきこもりも野宿も、状態像であって、そこには流動性があるわけです。それを固定したものとして本人の問題に帰属させて、その本人の問題を支援しましょうという構図になっている。
この構図は壊さないといけない。しかし、その時に対抗する「あがり」みたいなものがなかなか見えないですから、対抗軸として難しさが生じてる面もあると思います。
生田…「あがり」を拒否するっていうパターンもあります。不登校でいいじゃないか、ひきこもりでいいじゃないか、野宿でいいじゃないかと。でも、それとも違う「第3の道」があると思う。
協働して生きる
中桐…アルミ缶労働者の働き方で言えば、がんばっていっぱい集める人もいれば、「わしゃ200円でエエねん」って人もいます。自分のペースで働けるわけです。もちろん、栄養状態や、医療などいろいろな問題はありますが、自分で働き方を選べることはとても大事なことです。それはヒントとして考えたいんです。ただ、実際に食えない仲間がたくさんいるわけだから、仕事づくりや協働作業を考えていかないと、無責任だとも思っています。
馬野…私もニートですが、「働かなくて何が悪い」と公言しつつも、現実問題として「食っていけない」という問題があります。だから、「ニートでも、ひきこもりでも、生きさせろ!」みたいなものを模索したい。
生田…野宿そのものはいいものでも悪いものでもなくて、問題は貧困だと思います。月収3〜4万という状況は明らかにマズイです。コンサートにも行けないし、映画も観に行けないわけですから。
吉岡…お金がなくても楽しんで生きていける、いろんな活動もやっていける道を生み出していくことが必要かもしれません。人のつながりとか、シェアハウスとか。たとえば「素人の乱」のような活動で、「活き活き」する人もいる。
馬野…素人の乱はひきこもりには無理ですよ。「コミュニケーション強者」じゃないと入っていけない。
自分のやりたい趣味もあって、コミュニケーションは苦痛じゃなくて、とりあえず正社員は無理かもしれないけどバイトはできる人。「そういう場がある」「住みやすい」、それはすごく恵まれた条件だってことを自覚しておかないといけないと思う。地方に住む人や、対人関係が苦手な人には「生きられない」という現実がある。だから「生きさせろ」って言うんです。
生田…熊本だと全員が実家にいると聞きましたが、ネットカフェ難民の調査をみると、親との関係が複雑、あるいは親も貧困で頼りにはできないという若者が多いようです。収入が少なく、親をあてにできない若者の多くは、ホームレス状態になるしかありません。
馬野…(実家にいられる)自分たちが相当恵まれているのは自覚しています。運動につながってる、情報がある、外に出られる、デモに行けるというだけでも、相当恵まれています。そこに無自覚だと、「上からの目線」になってしまいます。
お隣さんの重なり合い
生田…寄せ場に来る人の中では、「摂食障害」の女性が少なくありません。摂食障害の人には「過剰適応」の割合が多いんです。つまり、いい子で居続けたり、異常ながんばり屋ですね。自分自身でも他人からも、「自分の存在」を肯定された経験が少ないので、親や学校の価値観とか、ジェンダー的な価値観=「やせてる」とかに自分をあてはめるんです。テストの点数や、体重計の数値に自分の存在を適応させてしまう。
そういう子が釜ヶ崎にハマるんです。自分が合わせてきた社会と全然違う人たちがいっぱいいる。裸で歩いてたり、道ばたに寝っ転がったり。「今まで無理して合わせてきた社会って何なんだろう?」って、ぱあっと世界が開けるようです。それで炊き出しを「おいしい」って食べたりする。
メンヘラーにしても摂食障害にしても、その人自身が「生きる」こと、食っていくことの問題に直面し始めていると思うんです。もう、人ごとじゃなくて、自分の問題だと気づき始めています。こういうところで、不登校もひきこもりも野宿者も、同じ問題にくくられつつあります。ですから、お互いの立場の違いを何度も確認し合いながら、「じゃあ、一緒に何ができるのか?」を考えないといけない時期にきてると思います。
中桐…「貧困問題」という語られ方の中で、隣り合った領域が見えてきました。ですが、お隣同士でも、たとえば、野宿者と労働組合でもよく知らないことがあります。僕らは福祉事務所とのやり取りには蓄積もありますが、労働基準監督署のことはあまり知りません。でも、労組の方に聞くと、労基署でも福祉と同じような水際作戦がやられてることがわかります。
それで、お互いに福祉事務所や労基署での経験を学び合っていくことはすごく大事じゃないかと考えています。
馬野…今までは、そういうのがなかったんです。不登校・野宿・メンヘル・ひきこもりが分断された状態で、つながることがなかった。いろんな団体とネットワークを広げていきたいというか、いかなきゃ「生きれない」というふうになっている。
名称による分断を壊す
山下…私がこだわるのは、「当事者」がそういう名称のもとに、「自分が弱いから」だとか「ダメだから」とか思いこまされてることと、名付けられて社会問題化されたことは、つながっている問題だいうことです。
不登校は「学校恐怖症」という病名から始まっています。それは学校に行かなかった本人が付けたわけじゃない。ある視線から名づけられた名称です。ひきこもりも、治療の視線から名づけられて問題化したわけです。ニートに関して、イギリスでは、社会的排除の問題として語られたのに、日本ではひきこもりとほぼ同義語に扱われています。
そういう名称化に潜んでいる視線を壊すことと、いろんな「当事者」がつながっていく可能性とは、結びついていると思います。
たとえば、あるフリースペースの子が、支援しようとやってくる大人について「支援臭がする」って言ったことがあるんです。それは理屈ではなく、まさしく臭いを感じて拒否したわけです。つまり、その人のスタンス、視線の向け方を感じている。
だから、逆に言えば、当事者を問題にするのではなく、社会構造を問うスタンスを持っていることは、そのスタンスによって生まれる関係があると思うんです。それは、目には見えにくいですが、すごく大きな力だと思います。
ただ、そういう関係を模索するうえでも、家族や社会の余力のようなものがないと、厳しいのは確かだと思います。そのあたりは、とっても厳しくなっていますよね。コムニタス・フォロに現在つながっているのは、家族に支えられている人のほうが多いですから、恵まれている状況なのは確かでしょう。しかし、私には、そこに分断線は入れられたくない、という思いがあります。「あっちは恵まれてる」「こっちは恵まれてない」みたいな図式で対立してしまうと、かえって外に向かって開かれていかなくなります。
協働の基盤となる「居場所」
中桐…協働の労働や、経験共有の基盤にもなる「居場所」の問題について議論したいと思います。
山下…結局、不登校にしても、ひきこもりにしても、ニートや野宿者問題にしても、家族以外に「おたがいさま」で支え合える関係がないことが大きな問題だと思うんですね。だから、家族に一極集中でしわ寄せが来ている。なにがしかの形で、おたがいにつながっていけるような場が必要だと思って、若者の居場所みたいなものを始めたんです。
中桐…先日、吉岡さんが東京のもやい(NPO法人・自立生活サポートセンター・もやい)を訪問されて、もやいが運営している「カフェこもれび」というサロンがとてもステキなところだったとおっしゃっていましたが?
吉岡…週末に、建物からあふれるほどの多くの人が、いわゆる支援者とか、支援される人との線引きを越えて集っていたんです。支援関係ではなく、一体何が惹きつける力になっているんだろう?とすごく興味をひかれました。
その中の一人に、うつ状態で休職中の女性がいました。もやいでは有給・無給関係なく「もやいのスタッフ」のようでした。ここでは「労働と失業の間」のような状態が垣間見られるわけですが、ひょっとしたら、ここは、働くことの意味を考えられる場として機能してるのではないかと思いました。
もやいは根底的な部分で、支援をする側/受ける側という枠組みを超えて、自立の概念自体を揺さぶっているのではないでしょうか。生活保護を受けて、アパートで自立生活をして、「はい、終わり」=「あがり」ということではなくて、アパートに上がっても、もし何かあったら、すぐにSOSを出せる、なおかつ人間関係の貧困も解消していける、連なりの中で支え合っていくということを徹底していました。
かけがえのない出会いの場
中桐…生きていくための協働の基盤の一例として、長居公園のテント村(昨年2月に強制撤去)についてもとらえ返したいと思います。
山西…長居公園に初めて行った時がちょうどテント村の炊き出しの日だったんですが、いきなり「はい、食べ食べ」とご飯を勧めてくれたんです。「こんな居心地のいい空間があるんだ」って、すごく印象に残っています。
私はうつになっていたんですが、長居に行ってる時間だけが私にとって「生きてる時間」でした。長居に行って、ご飯食べて、お酒飲んで、語り合って、途中から研究なんて頭から無くなってしまって、みんなと一緒に活動してきました。
最初はうつのことは言えなかったのですが、「この人たちだったら何の偏見もなく受け入れてくれるんじゃないか」と思って打ち明けました。私がリストカットするのを怒ってくれるおじさんがいましたし、死にたい衝動に駆られてアパートの屋上に上がって「飛び降りてみようか」と考えた時に、助けてもらったこともありました。そういう相談に乗ってくれる人生の先輩がいたし、活き活きとして、とても人間味のある人たちに出会ったことは、私が長居のテント村での貴重な経験、かけがえのない毎日でした。
長居がなくなってから、うつが急激にひどくなって一年半ひきこもったんです。今は大学に復学しましたが、どうして復帰できたかというと、きっかけは5月に長居公園で開催された「大輪まつり」でした。まつりの準備のための会議が外に出る動機付けになったんです。会議があるから外に出かけられるんだという自信がついた。「会議のため」というよりは、「みんなに会いに行くため」でした。
吉岡…大輪まつりにしても、自分たちでどういう空間を作るか、という意味をもっと考えたいですね。そういう場にコミットできる人と、できない人がいる。そういう場をものすごく遠くに感じて、「特定の人が参加する場なんでしょ」というとらえ方は、残念ながら、あります。「どうやって広げていけるのか?」が、ずっと頭の中にあって、日々悩んでいます。
馬野…(吉岡さんによる「高学歴者による運動」批判〔1307号〕について)低学歴というより、「低職歴問題」の方が重要で、高卒とか中卒とかでもとりあえずアルバイトができる人は生きていけちゃったりします。大卒とか院卒でも、逆に研究者として大学には適応できても、職場には適応できなかった人がかなりいます。
食えない。働けない。病んでる。それは、学歴とは関係ないと思います。確かに、就労の間口は大卒のほうがはるかに広いですが、いったん就職して、そこで適応できるか、働き続けられるかという問題には、学歴は関係ないと思います。
鍋谷…媒介する人の属性による部分も大きいと思います。馬野さんやぼちぼちが呼びかけた時に、「近寄りやすい特定の人たち」というのはあるでしょうね。
釜ヶ崎や長居の求心力について、今の社会の価値観の中では「生きづらい」と思ってても、「そこには行ける」とか「居てもいいや」って思える場所としてあったと思う。でも逆に、「そういう場所だから行きづらい」という面もあったと思う。高円寺(素人の乱)もまた違う面で同じようなことがあるんだろうと思います。
馬野…ありますね。自助グループには行けるけど、労組には来れないとか、その逆とか。だから、自分の必要に応じて行けばいいんです。
山下…学校の何がキツイかといえば、「例外を許さない」ところです。「学校はみんなが来るところだから、来ない子はいちゃいけない」という前提になっています。いじめで、なぜ自殺するまで追い込まれるかと言えば、「ここから外れたらおしまいだ」と思えて、他に行きようがないと思い込むからでしょう。
「自分たちで居場所をつくろう」という時、誰かを排除していたり、足りない面は絶対にあると思います。「開かれている」ことは大切ですが、すべての人に向いている場所なんて、そもそもあるんでしょうか? 私は、違いがある、限界があるってことを自覚しながら、なおかつ、つながっていける空間であればいいんだと思っています。
生田…野宿者の学歴を見ると、56%が中卒です。低学歴者が経済的な不利益を被るという構造が今後も簡単に変わるとは思えません。大卒者が正社員になりやすいというのも事実で、中卒者・高卒者は絶望的に困難な状況があります。そういう意味での二極分化は今後も続いていくでしょう。
違いを自覚しつつつながっていく
生田…今は貧困が進行していて、野宿になる寸前のところで多くの人が上下しています。「近い将来、不況になった時に、誰が最初に野宿になるか」といったら、多くが不安定就労である低学歴の人たちでしょう。今の時期に何とかしないと、野宿寸前の貧困状態にある人たちが、野宿になだれ込んでくる時代が間違いなくやってきます。
イダ…貧困がもっと深刻化すれば、「とりあえず生きる」ための支援の必要性は拡大するので、それはそれでしなくてはなりません。でもそれだけでなく、次の課題は、「あがり」がどうなのかという話で、弱い者とかしんどい者が、何とかうつを抱えながらでも生きるとか、仕事には就けないけど自己肯定する誇りとか、生き甲斐の問題があります。「あがり」として、今の秩序での成功像ではないイメージを示すことができれば元気が出るので、それをつくり実践していくのが、私たちの課題だと思います。
「とりあえず就職」とか、「とりあえず結婚」じゃ展望がない。「今までの秩序ではないものの方が、むしろ面白いよ」ってことを示すという点では、「ユニオンぼちぼち」にしろ、「よわいものメーデー」にしろ、希望があります。
馬野…熊本では「反貧困」という路線よりは、「生存」という路線で進んでいきたい。みなさんある意味「明るいビジョン」を探してるじゃないですか。一方で本当に絶望的な状況があって、それは無視できません。
絶望的な状況を明るさで乗り越えるというのには批判的です。「破滅的で絶望的なものを排除しない」というスタンスは必要だと思う。
KYメーデーのシュプレヒコールで「練炭買う金もないぞ」というのがあったんです。最初は「樹海に行く金をくれ」という案もありましたが。
絶望的なものを発散しない限りは、明るい展望は持ちようがない、と思っています。
中桐…分断を越えてつながり合うためには、メディアの伝えていく役割も大きいと思います。人民新聞も頑張ります。ありがとうございました。