[社会] 実録・釜ヶ崎暴動/大阪府警西成署への積年の恨み爆発
──釜ヶ崎パトロールの会 内永徳
「もう収拾なんかつかない。暴動が始まった!」
2008年6月13日から6月17日までの5夜にわたって釜ヶ崎で暴動が闘われた。僕は5夜を通して現場に立ち会ったので、見たことを簡単に報告したいと思う。
初日・6月13日 度重なる警察官の暴力
この日現場に駆けつけたのは深夜11時半なので、前半は現場にいた友人達から聞いた様子だ。
事の発端は、警察官による暴行事件である。6月12日、釜ヶ崎・労働者Aさんが、飲食店でのトラブルから西成署に連れて行かれ、西成署内で警察官によって暴行を受けたというのだ。Aさんは、釜ヶ崎地域合同労組(釜合労)に相談をし、釜合労は13日夕方5時半から西成署前で抗議行動を始めた。
翌日の新聞報道で西成署は、「暴行の事実はない」と発表した。しかし、Aさんの首には首を絞められた跡がくっきりと残っていた。
大阪府警西成署は、196 1年の第1次釜ヶ崎暴動以来、釜ヶ崎における「治安対策機関」としてのみ存在しているといっても過言ではない。労働者を監視するための監視カメラは、すべて西成署につながっているし、署内では日雇労働者の事を「450(ヨゴレ)」という隠語で語り、シノギ(路上強盗)の被害にあった労働者が西成署に駆け込んでも、「お前が悪い」と追い返された、という話しは何度となく聞いた。
釜合労が抗議活動を始めるや、労働者が次々と集まり、「署長謝れ」、「わしも同じような目にあった」と口々に叫ぶ。しかし、高い鉄柵に囲まれた西成署は門扉を固く閉ざして一切対応をしようとしてこない。苛立った労働者が空き缶や空き瓶を時折署内に投げ込むが、状況は変わらない。
ところが何を思ったのか、中から私服警官が2〜3人出てきたという。詰め寄ろうとする労働者を前にしたその私服警官は、突然、労働者らに暴行を加え、西成署北側にある裏門に逃げ込んだのだ。
労働者の怒りは爆発した。裏門めがけて労働者が殺到。その時現場に居た友人は電話越しの僕に向かってこう叫んだ。「もう収拾なんかつかない。暴動がはじまった!」
労働者は裏門を破壊し、さらに応援に駆けつけた機動隊に投ビンの雨と、「まるで時代劇で見る一揆の大八車のように」(友人)リヤカーで突入し、機動隊を蹴散らし中に突入した。門を破壊しているときには労働歌「がんばろう」を歌っている労働者もいたらしい。
サミット蔵相会議初日の「暴動」
僕が現場に着いたのは深夜11時半頃。「もう終わっているだろう」と思いながらも、歩いていくと完全武装の機動隊によって阪堺電車のガードが完全に封鎖されその前にも人だかりができている。
大きく迂回しながら西成署前に行くと、攻防は続いていた。機動隊は西成署前の釜ヶ崎銀座通り(釜ヶ崎のメインストリート)に阻止線をはり、労働者を押し返そうとするが、当の機動隊員自身が完全に怖がっており、ヘルメット越しに引きつった顔が見える。一歩前に踏み出すにも全体で「いち!に!」「前へ!」と大声で叫ばなくては出れない有様だ。
よく見ると機動隊は、臨時に編成された寄せ集め部隊らしく、盾も乱闘服も新旧の装備が入り混じってバラバラの状態。そう、この日は大阪でG8蔵相会議の開催中で、機動隊の精鋭部隊はサミット会場にまわされたのだろう(後方の部隊には婦人警官も投入されていた)。
奇しくも暴動初日がG8蔵相会議当日と重なったが、この暴動はサミットと無関係ではない。確かに暴動の最中に「サミット」を意識した労働者はほとんどいなかっただろう。しかし、釜ヶ崎の労働者は「労働者派遣法」制定のはるか以前から、頂点を大手ゼネコン、末端を手配師・人夫出し業者とする重層的下請構造の中で日々使い捨てられる労働力として存在させられてきた。―暴動の最中に「わしらなしでビルも橋も作れるんか!」という怒りの声を何度も聞いた。こうして平均寿命が全国最下位という、貧困が命の問題へと直結する状況に追いやられてきたのだ。
労働者の蜂起の背景には間違いなく日々さらされる資本・警察の暴力への怒りがあり、労働者が撃とうとしたものは全世界でサミット反対を闘う人々の課題と全く同じものなのだ。この暴動は反サミット闘争の最高形態だ。