[投書] 紙上討論/フリーター運動は「高学歴インテリ左翼の気まぐれ」?3
はじめに
フリーター運動は、切迫した状況にある「低学歴」フリーターと連帯できていないのだろうか?お互いの「違い」を乗り越え、豊かな繋がりを求めるための奮闘は、今も続いている。
無力感から連帯への道を探し出そう●高木陽子(仮名)
私は一応定職にはついていますが、時間給で働いている非正規雇用の者です。どこかに属したり、何かの運動に関わっているわけでもなく、新聞を読むよりは、明日の労働に備えて早く寝るような生活を送っています。
履歴書上は「大卒」ですが、様々な事情で労働市場において私は、魅力的とはいえない人間です。また「大卒」の割に、学力も知識も「言葉」も 持っている人間とはいえません。「大卒」ですが、「持たざる者」であると自分を認識しています。
吉岡さんと小野さんとの紙上討論を読みました。第一印象として、両者の話がかみあっていないのでは、と感じました。
吉岡さんの問いは、「なぜ、運動の中心は高学歴者ばかりなのか?学問的な雰囲気の中でどうすれば、持たざる者(低学歴)もまきこんで大きく連帯していけるのか?」だと私は解釈しました。
これへの応答として、小野さんのコメントを何度も読みましたが、直接的な答えは見つけられませんでした。
吉岡さんの意見の主語が、あくまで「持たざる者」であるのに対し、小野さんの主語は終始、私・自ら・われわれであり、「持たざる者」への視点は見られません。あくまで自分の文化の尊重、説明ではないかと感じました。
小野さんが捨てきれない自分の言葉は、「妥協」というよりエゴのような気がします。小野さんの『時に手厳しく批判される「高学歴」ゆえの言葉遣い」をおろすことが、なぜ「妥協」なのでしょうか?
一般的に見て、「高学歴」である方が、議論を処理できる「言葉」の数が豊富かつ迅速で、それが討論で有利に働くことは事実です。どちらが有利かわかっている場所では、不利な方がひるんでしまうのは当然ではないでしょうか。
小野さん御自身、『自分の無能や努力不足を棚上げにはしない、しかし、多くの大学院生の不安定な境遇が政策的に生み出されてきたことも事実です』と仰っています。
学問にふれる機会のあるなしに関しても、個人の努力ではどうしようもない境遇があることは、「持たざる者」も同じではないのでしょうか。そこで、「高学歴」である方が、そうでない人にも伝わる努力をすることは、「妥協」ではなく、「協同のための必要な努力」ではないのでしょうか。あくまで学問にこだわり、「言葉」を持たない相手にも伝わる努力をすることを「妥協」だというならば、それは「高学歴」のエゴだし、社会を相手に戦うという大きな目的を前にして、あまりに小さな話ではないのかと、私は思います。
ネオリベ的観念やマルクスという単語の前に「持たざる者」は沈黙するしかありません。社会構造、という大きな敵と戦うなら味方は多いほうがいい。味方を増やすには、立場の違うそれぞれがエゴをある程度抑えないといけないでしょう。
私にはとても尊敬している先生がいますが、その方は若者の連帯を「愛と自律」という言葉を使って諭されていました。「持たざる者」の側のエゴとして、私が共通の課題だと思うのは劣等感と被害者意識です。
「『負け組』の中でもさらに底辺にいるわたしたち」というネガティブさです。『どうせスポイルされるだけ』、『大学に行けるだけの余裕と知識があるのに、なぜ状況を変えられないのか』いう表現にも見られるような、自分たちが何をやっても無駄というようなネガティブな意識です。そこからでも、つながれる何かを見つける方法はないかという姿勢が、「持たざる者」には必要だと思います。