[社会] もうひとつの働き方としての農業
はじめに
「もうひとつの働き方」として農業を選択する若者が増えている。不安定で低賃金な「フリーター」か、過労死寸前までこき使われる「正社員」かという選択を拒否した結果だ。と言っても、農的生活は楽ではない。自然を相手に長年にわたる技能習得があって初めて「何とか食える」ようになる。それでも農を選択するのはなぜなのか?何が得られるのか?農業を選択した理由や、その生活スタイルを長期連載で掲載する。農的生活は、新自由主義への抵抗であり、オルタナティブという意味を持ち始めている。
「農業は、暮らし全体を自分流にデザインできる。とても創造的な仕事だ」こう語る坂口典和(40)さんは、就農して13年になる。アフリカの太鼓=ジャンベの演奏は、玄人はだし。篠笛やケーナも演奏し、地元の仲間と共に地域イベントや保育所・老人施設でライブを行う。
3年前には、地元大工の指導を仰ぎながら納屋のセルフビルドに挑戦。基礎工事から棟上げ・屋根張りまで自前でやった。来年には小学生になる子どものためにロフトを作って完成させる予定だ。有機野菜作りを中心に、生活まるごと自分流にデザインしながら創造的な暮らしを行う坂口さんを篠山に訪ねた。(編集部・山田)
エコロジー運動から農業へ
「器用じゃないので、努力タイプ」という坂口さんだが、この多才ぶりをみると謙遜としか思えないが、どの「芸」も10年以上はやり続けているというから努力家でもある。
「子どもの頃から虫採りや魚釣りが大好きだった」坂口典和さんは、箕面市で生まれ育った。小学生の頃は、父親の実家がある熊本に帰省するのをいつも心待ちにしていたという。
田舎くらしを真剣に考え始めたのは、大阪外大在学中だ。環境NGO活動に関わったり、2年間の海外放浪でシュタイナー農場(ドイツ)やコミューン農場(スコットランド)で自然とともに暮らす生き方を経験し、帰国後、農地を探し始めた。ちなみに、この頃パートナーである玉山ともよさんと知り合っている。当時環境NGO=「アシード関西」のリーダーで、現在も大学院生としてアメリカ先住民の研究を続けている。
93年、知人から「篠山の農家が空いた、住んでみないか」という誘いに飛び乗った。しかし勢いで田舎暮らしを始めたものの農業は全くの素人。「農業のマネごとを始めて三日目には食べていけないことに気づき」、塾講師(英語)のアルバイトで食いつないだという。
中学教師だった父は、就農に大反対したという。農家出身で、農業のシンドさを知っていたからだ。そんな父も、借金で今の家を買うのには応援してくれ、納屋作りでは、重要な助っ人となっている。
就農して4年は、英語の塾講師で現金を稼ぐ兼業だったが、「無農薬栽培を突き詰めたい」との思いから塾を辞めた。無農薬栽培は雑草・害虫との闘いで、手間が数倍かかる。農業だけで暮らせるのか?との不安はあったが、技術的飛躍に賭けてみた。3年前には、家と土地を購入し、野菜作りのノウハウも確立しつつある。