[情報] 長野/立ち上がれない者たちのメーデー
来年こそは立ち上がることができるのか?
《立ち上がれない者たちのメーデー2008〜来年こそ立ち上がるために》は、労働組合からも零れ落ちた、寄る辺ない個々人たちのメーデーとして行われた。
不当な低賃金で搾取されていること、過重労働・長時間残業で過労死しそうなこと。それらは間違っても「自己責任」ではないこと。「格差社会」と戦争が人を殺害し続けていること……実はこれらは、デモで叫ぶまでもなく、あちこちの井戸端で普通に囁かれてきたことに過ぎない。誰もが知っていることである。
しかし、私たちの多くは格差の不当や戦争の悪について知ってはいても、それを是正するために立ち上がることができずにいる。仕事で多忙な日々が、毎日のように発売される新製品を待つ楽しみが、田舎社会のしがらみが、自分自身が「弱者」「負け組」であることを認めたくない恥じらいが、自分は「一人前」でありたいという夢想や目標が、立ち上がることへの面倒臭さが、きっかけの無さや友人と一緒に何かを始めることへの確信の無さが、私たち自身が生き辛い世界に立ち向かうべく立ち上がることを妨げ続ける。
半ば不可抗力として、また半ば自発的な「立ち上がれなさ」の中に、私たちは常に留め置かれがちだ。
だから「立ち上がれない者たちのメーデー」は現れた。立ち上がれない(立ち上がりたくもない)仲間たち、恥ずかしがり屋で面倒嫌いで臆病な街の仲間たちに、自身の不自由を忘れた「自由」なるものの姿と、立ち上がるのも面倒だという気分と、恥ずかしさと、臆病さを、私たち自身の実情として、まんま晒しながら、しかしその地点から湧き上がる力が、実は私たちに備わっている可能性を示すために。
今年のメーデーには準備が間に合わないことは織り込み済みのまま、来年のメーデーのために。
そしてこの日、この小さな町であっても「立ち上がれない者たちのメーデー」への応答と共感の可能性は、確かに示されたのだ。