[コラム] 生田武志/どう見る? 派遣法改正
日雇いという労働形態自体の問題ではない
「日雇い派遣」が貧困の温床だとして、全面禁止しようとする動きが本格化している。細切れ型の就労で雇用保険や健康保険に加入できない、一カ月に平均十四日間働き、月収は十三万円あまり、三〜四割の中間マージン、その上、二重派遣、偽装派遣、違法派遣、さらには意味不明な名目のピンハネが多発しているからだ。
日雇い廃止の動きをぼくたちは釜ヶ崎で見ているが、知り合いどうしでは「なんだそれ」という話になっている。釜ヶ崎や山谷などの寄せ場では、いま挙げたほとんどの問題を持った日雇労働、おまけに現在の日雇い派遣では禁止されている「危険な」港湾・土木・建築現場の労働が違法のまま五〇年も六〇年も存在し続けているからだ。
「日雇いがまずい」と言うなら、真っ先に従来からの日雇労働者について一言あるべきだろうが、それについてはまったく語られることがないのはなぜなのか。
日雇労働が問題とされるのは、「派遣業者」(手配師)が違法行為を繰り返していること、労働条件があまりに劣悪であること、当然あるべきセーフティネットが保障されていないことなどのためだ。だが、それ自体は「日雇い」という労働形態そのものの問題ではない。
もちろん、現状ではあまりに日雇労働、不安定雇用が拡大された結果、「本来やりたくないのに日雇労働(不安定雇用)にしか就けない」人が増えているという現実がある。その意味では、全体としては日雇労働、不安定雇用の拡大に歯止めをかけ、減少させていく必要があるだろう。一つには、少なくとも現状の日雇労働、日雇い派遣労働で何十年もずっと「ある程度の収入を確保しながら」生きていくのは、釜ヶ崎などの寄せ場の現実を見れば、ごく一部の人にしか無理だからだ。
現実として、不安定就労は「貧困」と直結している。一般には結核は日本では「過去の病気」とされているが、いまも釜ヶ崎の「一〇人に一人が結核」と言われている。釜ヶ崎の結核罹患率はカンボジアや南アフリカよりも二倍近く高く、二〇〇六年でも「世界最悪の感染地」(毎日新聞)と呼ばれている。原因は、もちろん栄養不足や不安定な生活、つまり「貧困」である。
大阪府立大学の研究によれば、餓死や凍死、また治療を受ければ治る病気などによって路上死する野宿者が、大阪市内で二〇〇〇年の一年間に二〇〇人以上いた。海外の難民問題に関わってきた大阪の「国境なき医師団」のメンバーは、「大阪の野宿者のおかれている医療状況は海外の難民キャンプのかなり悪い状態に相当する」と言っていた。不安定就労から失業へ、そして究極の貧困である野宿へ、というルートが成立してしまっているのだ。
われわれにとっての「柔軟性」と「社会保障」の確立を
ただ、日雇労働、広くフリーターなどの不安定雇用をなくして、みんなが例えば「正社員」になることが「よりマシ」なのだろうか。
というのも、「日雇労働」だから労働できる、という人もたくさんいるからだ。ぼく自身も多分そうだった。不安定雇用は、ぼくの人生にかなり適合していた。普通の会社などの仕事なら、活動などがあるたび休むのは大変だが、日雇労働なら、それこそ朝、目がさめてから「今日は休み」と決めても誰にも迷惑はかからない。
それに、会社の正社員になると「会社に身柄を売る」ようなしばりがあるが、非正規雇用、特に日雇労働の場合は、感覚としてある程度の「自由」が確保される。ただし、その「自由」は政財界側の「新自由主義」と交差しているのだが。
より根本的には、「正規雇用」と「不安定雇用」という作られた二極分化を解体すべきではないか。特にこの一〇年、「同一価値労働・同一賃金」「社会保障の完備」を否定された「雇用の流動化」(いつでもクビにできる)の対象としてのフリーターと、極端な長時間労働を強いられる正社員という二極分化が急激に進んだ。雇用の「流動化」は、経営者側のみに都合のいい雇用の「柔軟性」(フレキシビリティ)とも表現されている。
これに対して、オランダモデルのワークシェアリングは、柔軟性(フレキシビリティ)と保証(セキュリティ)の両立の実現を意味する「フレキシキュリティー」という概念を提出していた。一九九九年に施行された「柔軟性と保証法」により、それが法的に現実化した。「非正社員=不安定就労=低賃金」というパート・アルバイトの基本問題がこれによって(原則としては)解消する。
われわれ自身にとって働きやすい方法を選択できる雇用の「柔軟性」と、どのような働き方にも生活が保障される「社会保障(ソーシャル・セキュリティ)」が両立できるシステムを作る必要がある。日雇い派遣の禁止問題は、ジェンダー・家族を含んだトータルな労働形態のリストラクチュアリング(再構造化=組み替え)の入り口として考えるべきものなのだ。 (野宿者ネットワーク)