[コラム] 栗田隆子/「運動入門」一歩前
「切ないからだ」持つ人間が社会について考えること
この連載の依頼を受けた時、『人民新聞』で書くのならば、いわゆる「運動」というものについて考えてきたことを、つれづれに書きたいと思った。
逆に言えば、私は「運動」について「考えた」ことはあるものの、いわゆる「運動」をしたことがない。学生運動はもちろん(世代的にも)経験なし、近年参加した秋葉原でのデモは集会途中で体調を崩して帰宅、テント小屋の訪問はおろか、路上生活者の方への夜のパトロールはどう考えても自分がそこでカゼを引いて、おまけにそれをうつしてばかりいそうでパス。越冬闘争の最長参加記録は一泊二日、闘争どころか「お泊り保育」である。もちろん占拠闘争、ロビー活動の一つもした試しはない。ほんとうに自慢にもならないが、筋金入りで「中途半端やなあ」(byちゃらんぽらん@吉本興業)である。「運動」と名のつくものはスポーツであれムーブメントであれ苦手、と言い切ってしまってよいだろう。
「健全なる魂は健全なる肉体に宿れかし」と祈ったのはローマ帝国時代の詩人だそうだが、「中途半端な肉体に中途半端な魂が宿っている」からこそ、「社会」について考えざるを得なくなったんだよ、というのが正直な感想である。
先日も流行のインフルエンザにかかった。不登校にしてもフリーターにしても、こういう時だけはしっかり「流行の先端」を突っ走ってしまう己が身が物悲しい。とはいえ、ウィルスに対し高熱を出し、鼻水を垂らす自分のからだはとにもかくにも闘っているなあと思う(もちろんこの場合はウィルスに対して)。私はこういう闘い以上に、自分の人生で闘ったことはないような気がする。そしてそんなウィルスに対し必死に闘うからだって切ない。そしてみんながこんな切ないからだ(強い、弱いの差は歴然とあるのだけれど)を持って世の中渡っているんだ、と思うと少し人を見る目が変わりそうな気がする。