[情報] 追悼・竹林伸幸さん/「志を持って立つ」貫いた孤高の庶民派
竹林伸幸さん(西宮市)が亡くなった。トレードマークの後ろ向きにかぶった阪神タイガースの野球帽姿に、白で「戦争反対」と手書きした赤いのぼり。こんな竹林さんの姿を、関西の反戦集会・デモなどで見かけた人は多いことだろう。
竹林さんは、毎週水曜に大阪市北区の駐大阪・神戸総領事館前で「大阪米領事館ヒューマンチェーン」行動に取り組み、アフガン・イラクと戦争を仕掛けたアメリカ・ブッシュ大統領に抗議し続けた。五人にも満たない参加者で、「参加者の『人間の鎖』で、領事館を取り囲むのが理想なんですけどね」と笑っていた竹林さん。たとえ一人でも声をあげていく、という孤高の人だったように思う。
本人曰く、「日本中どこにでもころがっている普通の市民」「学歴は京大経済学部卒だが一貫してエリートコースとは無縁、庶民と共に歩む」の言葉どおり、竹林さんの印象は優しそうな、どこにでもいそうな白髪のおじさん(一九三六年生まれ)。「中国語翻訳業」の仕事と年金で糊口をしのがれていた。
しかし、そんな見た目とは裏腹に、竹林さんの行動は、目を見張るほど精力的だった。「ヒューマンチェーン」以外にも、「辺野古への基地建設反対」の署名活動に参加したり、「戦争反対ロードマップ」と題した関西の主要な駅頭でのビラまき等に取り組んだ。
また、地元・西宮市(兵庫県)市議会選挙への立候補や、「青春一八きっぷ」を使って、毎年八月の広島・長崎の原爆記念日の平和集会には欠かさず参加されていた。
竹林さんは、もともとはSSKで働いていた。ところが、一九七八年に坪内寿夫が「企業再建」の腕を買われて乗り込んできた時に、「実質強制である自主研修は時間外労働である」として、研修の違法性を告発し、会社側は竹林さんを解雇する。会社からの様々な嫌がらせにも負けずに闘った(九〇年七月に解雇撤回・自主退職を内容とする和解成立)。
きっかけは忘れたが、竹林さんから「パソコンの調子がおかしい」「ホームページ作成で分からないところを教えてほしい」と、編集部に相談の電話がかかってくるようになった。「友人から教わってたんだけど、私がなかなか理解できないもんだから、愛想尽かされちゃってね」と言っていた通り、竹林さんからのSOSの電話にも関わらず、あまりの飲み込みの悪さに、私も電話口でついつい素っ気ない対応をしてしまったことがあった(竹林さん、ゴメンナサイ)。
でも、七〇を過ぎた高齢にも関わらず、自分でパソコンを使いこなそうとする意欲には、感嘆させられた。立ち上げたホームページは、見てくれはパッとしないけれど、竹林さんの「戦争も天皇も国境もない日本を目指す」の思いがこめられたメッセージが満載されていた。
自らの意見を譲らず、「頑固」と言われることもあった。決して「器用な生き方」をしてこなかった竹林さん。しかしその内面に「志をもって立て、立った以上はとことん闘え!」という決意を秘めて、竹林さんは精いっぱい生き、闘ったのだと思う。こんな生き方、誰でもできるわけではない。合掌。(編集部 一ノ瀬)