[海外] タンザニアから日本の近代化を振り返る
はじめに
「我々が目指してきた近代化とは何だったのか?」。こんな疑問を携えて一九七三年、椿延子さんは青年海外協力隊(JOCV)としてタンザニアに渡った。以降約二五年間、タンザニア農業省で勤務しながら農業を営み、タンザニア人の夫と子ども二人と共に暮らしている。タンザニアでの経験をもとに日本農業の近代化とは何だったのか?語っていただいた。
一九四六年、北海道に生まれた椿さんが見た農業近代化とは、機械化による生産性向上の一方での、借金による土地・資材の購入、農薬による農民自身の健康被害。結果、多発する自殺や夜逃げだった。見た目には「豊か」になったが、農村の疲弊に加え、若い人は都会に流れていった。
椿さんが青年海外協力隊を志望したのは、「近代化以前の生活様式をもう一度追体験する」ことで、農村近代化の「もう一つの道」を探すためだ。(文責・編集部)
タンザニアと故郷=北海道
タンザニアの地を踏んで故郷に帰ったような安心感を覚えました。人類発祥の地として長い歴史を持つタンザニア農家の生活は、農耕の歴史の浅い北海道と非常に似通っていたのです。
今、日本に帰ってもホッとできません。ほとんどの地域が不自然に工業化された農業で、薬漬けです。自然農法や有機農業にこだわり続ける友人の生き様には安心しますが、地域では変わり者と言われます。当たり前のことを頑張ってやらねばならないことにも不自然さを感じるのです。
北海道農家の近代化とは、規格化と商品化に追われ、冬にハウスでトマトを育て、農民自身が農薬で身体をこわす姿でした。悠然と同じ生活を続けるタンザニアの「良さ」とその意味を問うことは、変化を追い続けた日本農業近代化の是非を問うことに繋がりました。
タンザニアで変化が起こりにくいのは、「分け合う」というタンザニア社会の基本文化に起因しています。
例えば子どもがおいしいものを持っていると、大人が「ちょうだい」と要求するのが基本的な躾です。持っている物をさっと出せるように躾をするのです。お互いに、ある時は出す、ない時はいただく。こうしてモノが蓄積しないのです。たくさん「持つ」ことに満足感を持つのではなく、たくさんの人に「分けられる」立場に誇りを持つ社会なのです。