[海外] アルゼンチン/不平等に抵抗する変革の手段
アルゼンチンの息吹
日本で「ピケテーロス」という言葉が聞かれるようになったのは、やっと最近のことではないでしょうか。にもかかわらず、ざっと見渡すだけですでに様々な評価がなされていることが分かります。
一方では、政府から補助金をゆする左派系旧過激派であり、「一般市民への通行・営業妨害による経済的損失は計り知れない」という否定的な見解。他方では、既存の政治経済システムの外における意思決定回路として、その意義と可能性を認める見解。
共通して言えることは、すでにあの二〇〇一年の民衆蜂起から六年が経ち、好調な経済成長と反比例する形で、すっかり衰退傾向にあるという見方くらいでしょうか。特に、政府が始めた補助金支給プランをめぐって内部分裂・セクト化が進み、政党とのクライアンティリズムに陥っているといった指摘もよくなされています。
こうした評価はどれも正しいにしても、あくまでそれが言い当てているのは全体像の一側面であるように思われます。
一般にピケテーロ運動とは、主要幹線道路の封鎖という直接的な抗議手段によって、政府に補助金や仕事を要求する失業者運動であるとされています。語源的には、ピケットを意味するピケーテという名詞から派生した、ピケを張る人という意味です。ところがこれだけでは、なぜ注目に値する社会運動なのかよく分かりません。
そもそも「補助金要求」という目的は、一時的な貧困緩和に役立つにしても、長期的な目で見れば非生産的と言わざるを得ないし、結局政府への依存度を高めるだけではないか、という批判を免れません。
しかし、まずここに間違ったイメージがあると言えます。以前水の民営化撤回集会で知り合った、労働者党のマリオに話を聞きに行きました。曰く、「今ではピケテーロスの概念は拡大していて、この人がピケテーロだ、というふうに呼べる人はいない。ピケテーロスとは、教師、学生、労働者、失業者、病人、芸術家、哲学者…以下延々と続くあらゆる人々であり、不平等に抵抗する僕ら全てのことなんだ」。
つまり政府からせびった補助金で暮らすピケテーロスと呼ばれる集団が存在しているのではなく、多様な社会的アクターが用いる権力側への抗議手段のひとつ、社会変革の道具のひとつとして捉えるべきなのです。
「ピケテーロ運動は、家族を飢え死にさせないために必要に迫られて生まれた運動であり、今必要なのはその実践の中に理論を取り入れていくことだ」、と彼は言います。「大切なのは、階級意識を持つことだ。人間性・平等・平和という大原則に立って、資本家もブルジョアも存在しない、新しい社会をつくるために」。