[海外] ラテンアメリカ/遠い記憶・近い記憶/龍谷大 廣瀬純
自律性と水平性を求めて
ラ米における新たな社会運動で注目すべき点は、とりわけ先住諸民族の「遠い記憶」のなかから「国家に抗する社会」を構築するための様々な技術を掘り起こし、現代的コンテクストのなかでそれらを再活性化させて、闘争につなげていることです。
「遠い記憶」とは、近代の枠には収まらないような社会構築技術のことです。例えば、サパティスタの有名なスローガン「従いながら命じる」は、先住民族の「遠い記憶」として語られ、実践されています。ただし、「遠い記憶」のなかには、「男がエラい」とか、ときとして極めて残忍な形態をとることもあるような共同体的処罰といった、いまとなっては使い物にならないものも含まれています。
そこで彼らは、それぞれの共同体における「自律性」と「水平性」の構築に役立つものとそうでないものとを腑分けしながら、「遠い記憶」のアクチュアルな読替(翻訳)を試みているわけです。極めて実践的な「人類学」が闘争の基盤をなしているのです。
ボリビアでも、先住民族の農村親族共同体である「ayllu」と呼ばれる「遠い記憶」の再活性化が見られます。国営鉱山などのネオリベ的清算によって大量に発生した失業者たちとその家族は、たとえ彼らがもともと先住民族出身であったにしても、最初から「共同体意識」を携えて新たな地に移住してきたわけではありません。彼らは、基本的サービスや収入源を住民自身が自分で創出し維持しなければならないようなネオリベ的逆境を生きていくなかで、この逆境をそっくりそのまま力の基盤へと反転させるのに役立つ技術の宝庫として「遠い記憶」を再発見し、再び生き返らせたのです。
「ayllu」の主な特徴として、政治・経済の営みが住民ひとりひとりの日常生活と一体化していて切り離しえないものになっているという点や、リーダーの選出が輪番制となっていて、「やりたい人」がリーダーをやることのないような仕組みになっているという点を、特に挙げることができます。フランスの人類学者ピエール・クラストルが「国家に抗する社会」を唱えたとき、そこで問題になっていたのは、外部からやってくる国家だけではありませんでした。
それ以上に、社会それ自体の内部につねにすでに潜在している「原国家」(国家化の可能性)こそが、問題となっていたのです。「国家に抗する社会」とは、したがって、なによりもまず、社会それ自体の内部における「原国家」あるいは「内なる国家」の発動を、できる限り抑制しうるような社会的技術をたえず創造し続けようとする社会のことなのです。エル・アルトに代表されるボリビア各地のポストモダン貧困都市では、このような意味での「国家に抗する社会」を構築するための様々な技術が「遠い記憶」から呼び起こされることで、バリオごとに「都市型 ayllu」が形成されていったのです。
昨年六月からの「オアハカ・コミューン」と呼ばれるメキシコ・オアハカでの民衆蜂起においても、都市住民たちが中心となって先住諸民族の「遠い記憶」に学ぶ形で「オアハカ諸民族民衆評議会(APPO)」という組織を形成しています。
日本に暮らすぼくたちは、ラ米における「遠い記憶」の再活性化のこうした試みから何を学ぶべきか。
ネオリベ体制は、これまで国あるいは地方の行政が担ってきた様々な社会的サービスを住民(の「自立」)へとアウトソーシングすることで、政府のダウンサイズを目指します。隣に暮らす寝たきりのおばあちゃんの面倒を見るのは、行政ではもはやなく、ぼくたち近隣住民です。ネオリベ体制は、近隣住民同士の「絆」といった前近代的なライフ・スタイルの再生を必然的に要請するのです。ポストモダンの小泉政権とプレモダンの安倍政権とは、この意味において、相互補完的です。
重要なのは、こうした「遠い記憶」が「美しい日本」とか「品格のある国家」といった右派勢力のまき散らす迷妄に回収され無力化されてしまう前に、つまり、右派勢力やその他の政治経済エリートたちに先回りする形で、それを闘争的な組織化へと導くということです。これは、近代的諸価値の復権を唱えることしかできない「保守的な」左派諸政党の仕事ではありません。つねに前衛でありうるし、また、そうでなければならない運動の仕事なのです。