[情報] 北朝鮮民主主義人民共和国訪問記
──牧野一樹
アメリカの秩序を否定しゼロからの社会建設
五月二一日から三一日にかけて、朝鮮対日本文化協会日本局の招待によって一九年振りに訪朝することができた。二年余り前から希望していたが、なかなかタイミングが合わず、あきらめかけていた矢先の訪朝であった。
関空を出発してから七時間、小雨降るピョンヤンに着いたのは午後五時。二時間もあれば充分の距離を、大連、瀋陽経由で七時間かけて到着だ。北京で一泊し、北京の共和国大使館でビザの発給を受けなければならなかった一九年前と比べればずっと短縮されたのだが、この強いられた時間が、この国の現実を知ることを妨げている。
雨のピョンヤン空港に三〇年前の北京空港を思い浮かべた。その形状も、たたずまいの環境も、携帯電話を空港事務所に預けた以外は何も変わらなかった。一人一人の携帯電話を預っては、帰国時に返却とは手間のかかることのように思えたが、この国をとりまく国際環境からしてみれば、悲しいほどに致し方のないことなのかも知れない。
空港から市内までは、一時間弱。ピョンヤンに向かう道路の左右は大きく整然と畠や水田に区画されており、小雨の中、ビニール合羽に身を包んだ人たちが田植や農作業をおこなっていた。共同農場へ向う隊列、整然と行進する援農隊を見かけたのは、開城へ向う途中一度だけ。この雨期、総力動員体制で大躍進の援農が展開されているのかと思っていたが、どこも五、六人の単位で自由に、しかもゆったりと仕事をしているようだった。宿舎となった高麗ホテルは、入口が回転ドアーに変わったり、会議室の一部がレストランに変わっていただけで、それほどの変化はなかったが、出入りは自由。日曜の昼には市民が家族連れで、ビールを飲んだり冷麺に舌鼓を打っていた。
翌日の空は晴れわたり、日本を越える暑さが続いた。ポプラの綿毛がフワフワと舞うこの都市は、総人口の一割二〇〇万人が暮らす大都市に膨れていた。