[情報] 映画評「人間の碑」
ドキュメンタリー 90歳・杉山千佐子さん、いまも歩く
六〇年前の太平洋戦争。日本は、アメリカの戦闘機によって、爆撃(空襲)を受け、全国で一五〇ヵ所以上の街が焼かれた。民間人に対する無差別爆撃で、一千万人の人々が家を焼かれ、約五〇万人の人々が身体に重い後遺症を受けた。日本政府は、軍人や軍属、そして被爆者(九四年)に国家補償をおこなっているが、民間の空襲犠牲者には、何ら補償がなされていない。
日本がアジアの人々に行なった犯罪、朝鮮人や中国人の強制連行、従軍慰安婦などについては、マスコミも報道し、国際的な注目も浴びている。日本政府は、アジアの人々への戦争犯罪については曖昧にし、少しでも責任を逃れようとしているが、日本の空襲犠牲者については、忘れてしまっている。というより、見て見ないフリをしている。「私たちが死んでいなくなるのを待っているのだろう!」と杉山千佐子さんは怒る。
杉山さんは、戦争末期の四五年三月二四〜二五日の名古屋空襲で九死に一生を得たが左目を失い、残った右目も視力がわずか。当時二九歳。
五七歳の時に、声をあげることなく、ひっそりと暮らしていた全国の戦災傷害者を組織し、全国戦災傷害者連絡会を結成。その会長として先頭に立ったのである。会が結成された頃は、社会党、公明党、共産党などの野党が足並を揃えて戦傷者への救済法案をつくったものの、自民党の厚い壁に阻まれて成立せず、その後は、政界再編に伴う政党の離合集散によって完全にスポイルされてしまった。
〇五年、杉山さんの会も三〇年以上の活動を刻むものの、法案成立の目処は立たず、杉山さんも九〇歳を越えた。かつては、数百人の同志が国会に請願に出かけたが、今ではたった一人で平和集会に参加することもある。その姿は、群衆の中にいてもひと際目立つファッション!平和集会で喜納昌吉と「花」を歌い、「ハイサイおじさん」では、カチャーシーを踊り、海勢登豊と「月桃の花」を歌う。「このまま死ぬわけにはいかない。生き続ける」と語る杉山さん。とても八六歳の時、乳ガンを患い、左乳房を摘出したとは思えない。三〇年前の戦傷者の貴重なフィルムも活かされている闘う人間の記録。(M)