[コラム] 危機を乗り越えてなお存続してきた天皇制度/一水会代表 木村三浩
はじめに
本紙1237号で「『女帝?男系?』じゃなく天皇制の是非こそ議論の軸に!」として木村三浩さん、深見史さん、山村千恵子さんの意見を掲載した。今回は木村さんの「反論」という形で原稿を寄せてもらった。
異論・反論や、「日の丸・君が代」が強制される教育現場、全国各地からの反天皇制の取組の現場からの報告を含め、読者の皆さんからの活発な投稿を呼びかけます。(編集部)
国民合意形成機能としての天皇制
そもそも天皇制度は、我が国の長い歴史の中でなぜ一度も廃止されることなく存続し得たのであろうか。とりわけ鎌倉時代以降の武家政治など、それまでの価値観が大きく変化した時代にあっても、天皇制度が滅びることはなかった。また昭和二十年八月十五日の敗戦の結果、GHQによる占領政策が開始されたが、このときも天皇制度は温存された。このように時代状況がその時々で変化、転換を遂げつつも、一貫して受け継がれてきたのが我が国の天皇制度なのである。
我が国で天皇制度が一度も絶えることなく存続してこられた背景には、第一に、日本が地政学的条件に恵まれていた点を指摘することができる。四方を海で囲まれた日本が大陸文化の影響を受けてきたのは事実だが、同時に海が我が国と大陸を距離的に隔て、領域を明確化し、大陸から政治的にも文化的にも侵食されることを防いだ。
第二に、国内の敵対勢力が長く存続しなかったことも重要な点であろう。壬申の乱や南北朝時代など、天皇家同士を旗印にした抗争は確かに存在したが、天皇の権威に挑戦して争いを起こしたのは平将門など数えるほどしかいない。かの藤原氏ですら、摂政・関白として政権を掌握しながらも、自らが天皇に取って代わることを選ばず、その第一の臣下におさまることで権力の正統性を保持した。
こうした歴史的事実に基づくと、天皇の存在は国に動乱を招かず、国民の合意を得る上で天皇制度が有効に機能してきたことが理解できる。全体の長として、あるいは調和者として、木に例えるなら太い幹の役割を求められ、それを任じてこられたのである。
さらに三つ目として、中国などの政治思想や制度を丸写しせず、易姓革命や宦官を排除したことだ。これは皇室に限らず、民衆にとっても歓迎すべき出来事であった。このような皇室変革が行われなかったのは、「和」を掲げた聖徳太子以来の一本筋の通ったナショナリズムが、日本人の従順さ、性善説信奉と結びついたことによるものだったのではないか。
危機にこそ発揮される天皇制の重要性
さて、近世における天皇制度存続の最大の危機であった昭和二十年八月十五日の敗戦では、GHQの占領政策をスムーズに実現させるため、マッカーサーは天皇の存在を認め、これを重用した。
あの戦争では多くの将兵が散華され、民間人も命をかけて戦った。祖国のため、地域のため、家族のため、己自身のためと、思いはさまざまであったが、それでも身命を擲って戦ったことは事実である。しかしながらこの戦いに敗れたことで、天皇の戦争責任論が言及されるようになった。昭和天皇ご自身は「道義的責任」をお感じになっておられたが、これを「責任放棄であり、退位すらしなかったではないか」と、奥崎謙三のように怒りをぶつける感情が、一方においては存在した。
ただ、多くの日本人はそのような感情だけで問題が解決するとの認識を持たず、むしろ怨嗟の声を上げるよりは、前に進んでいかなければならないという目下の状況があった。
もっというならば、歴史的なさまざまな危機のときにこそ天皇制度の重要性が発揮されてきた経緯を暗に理解し、天皇ご自身もそれに適う役割を意識的に体現してこられた。だからこそ、「国体護持」という至上の目的を、国民は積極的であれ消極的であれ支持してきたのである。もちろん、それとは逆に天皇制度を権力機構としてのみ認識している人々からは、強烈な反発の対象とされてきた。
立憲君主制としての天皇制
いずれにせよ天皇制度は、立憲君主制度として存続してきている。これを捉えて、今日の社会において民主的ではない、現実的ではない、という意見もあるだろう。また、天皇のご意思云々を別にして、時の権力者に政治的な利用がなされる懸念は常に付きまとう。だが、理念上も実態に即してみても、立憲君主としての天皇制度は続いている。
これは、敵対する徹底した「民主主義者」にとっても、天皇制度を改変できうる共和制理念を提起し得ない限り、不変であろう。
戦前の治安維持法のような、人々の心の奥底にある「受け入れがたい」という良心に直接介入しない段階では、なおさらだ。それよりもグローバリズムの潮流の中で、パトリオティズム的な変革の源基としての神聖をいかに発揮できうるか、こちらの方が大きな命題としてあるのではないか。私には、そう思えてならない。