あなたは誰の子?/深見史
「おめでた」というおぞましさ
本先日、キコの妊娠の報を聞いた者は、その九割以上(木村氏の「天皇制度を容認する人の割合は八割を超える」と同様に根拠のない数字である)が、天皇制のおぞましさに身震いしたことだろう。小泉の皇室典範改正の野望を打ち砕くために、四〇歳になろうとする女をむりやり孕ませたのだから。
キコは「妊娠一ヶ月」だと発表された。女ならだれでも知っていることだが、女が妊娠に気づくのは通常、「来るべきものが来ない、どうしたのかしら?」と産婦人科に行って内診と尿検査をしてからだ。その時はすでに妊娠二ヶ月、少しのんびりした人であれば三ヶ月に入っているものだ。
キコがどういう妊娠の仕方をしたのかは不明だが、自然な妊娠方法によるとするならば、日夜延々とセックスに励む秋篠宮夫婦の側に、妊娠を確認するために医師が待機し、始終キコのおしっこチェックをしていたのであろう。
天皇制のおぞましさは、誰もがこの妊娠が「たまたまの、想定外の、思わぬおめでた」などでなく、皇室典範改正を防ぐためにはこれしかないと焦った男系派による強制妊娠事件であることを百も承知でありながら、「たまたまの、想定外の、思わぬおめでた」であるかのように語るところにある。
木村氏の言う「男系を貫くために知恵を絞ってきた歴史的事実、最重要課題」の姿がこれである。彼の言う男系天皇制の価値とは、こうした「伝統を守る努力」、女をとことん孕み道具として扱う努力のことである。
それにしても、だ。木村氏ほか天皇主義者(だけではない。いわゆる左翼を称する人たちもそうだろうが)、なぜ、かくも無邪気に「男系」が存続していると信じられるのだろうか。それともやはり、信じているふりをするしかないのだろうか。
民法七七二条には「妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する」とある。この「嫡出推定」は、日本を含む近代国家がお手本にしてきたナポレオン法典以来、受け継がれてきたものだ。
言うまでもないことではある。母は確認できるが父は確認できない、という、生物学的宿命ゆえに、「ま、父親はわからんのだから、そういうことにするしかないね」と、父子関係は「決める・信じる」しかない、という法律なのだ。
道具とされる女性の身体
男が自分の種を確認しようとすれば、必然的に女を拘束する。女にだけ強要された性道徳も、きわめて具体的な貞操帯も、性を子産みに限定した性器切除も、男が自分専用の子宮を確保するために犯してきた犯罪である。
もし、(木村氏が信じるように)天皇家が男系を繋いできた、というのであれば、それは、彼らが女に対する犯罪を連綿と続けてきたということである。彼の言う天皇の「国民では決して持ち得ない特別な役割」とは、「男系という伝統にこそ根拠がある」のだそうだから、天皇の価値とは、女の子宮を確保してきた、ということに尽きる。
だからこそ、それにしても、である。
なぜ、ナポレオン法典以来の嫡出「推定」を、天皇家に限っては「推定」ではなく「絶対」、と言い切れるのだろうか。「我々国民では絶対持ち得ない特別な役割を持たれている」ヘイカ・デンカにあっては、その妻や側室は歴代、おそれおおくも夫の子しか生まないに決まっている、という無邪気な信仰なのか。
かつて、きょうだい婚さえ珍しくなかった性的におおらかな時代を経て、なお「万世一系」を信じることができる根拠とは何だろう? それが実に不思議でならない。
恋愛など無縁に天皇の子産み道具にされた女たちが、誰も一度も他の男に恋をしなかったとなぜ言えるのか? 自分の境遇を惨めと感じる、まともな感性を持った女が、他の男の子を産んでやろうと復讐心を抱いたことなど絶対になかったとなぜ言えるのか? なぜ、キコの胎児が、明仁の孫であり、裕仁のひ孫であると断言できるのか?
…誰の子でもいい。惚れた女の子どもなら、俺もその子を大事にするさ。
と、男たちが言ったかどうかはともかく、明治以前の日本、すなわち現行天皇制以前の日本には、のびやかな事実婚しかなかった。天皇制の絶対的伴走制度である戸籍のない時代であれば、人間関係の基礎である男女の関係の自由さは想像できる。
天皇制の最大の犯罪は、生まれながらに人を差別し、差別し続ける戸籍制度をその存立基盤とすることだ。
「伝統」という名の差別をゆるさない
木村氏のように「連綿と男系継承がなされてきたことが、世界に比類なき我が国の伝統」だ、と平然と言える感性は、孕み道具化された女も人であること、感情があることさえ気づかない。天皇制家族制度の「伝統」を守るために、差別されづける婚外子の存在など目に入らない。この野蛮な差別を「伝統」として居直り続ける日本に対して、国連の規約人権委員会が再三にわたって勧告をおこなっていることにも興味はない。すでに日本は二〇〇万人の外国籍市民が存在する多民族国家であることにも気づかない。未だに単一民族国家幻想を抱く入管政策のために、世界良識の要求である難民受け入れを拒否し続け、自称先進国にとって惨状ともいえる身勝手さを世界に示していることも知らない。
「伝統」とは差別の温存のことである。「伝統を守る」とは、世界に対して恥をさらしつづけることである。