「皇室典範改悪問題」をこう考える/一水会代表・木村三浩
伝統・文化の継承としての天皇制
現代の日本社会において、天皇制度を積極的であれ消極的であれ、容認する人の割合は、すでに八割を超えている。戦前の白馬にまたがった天皇制度というより、日本国憲法の中ですら象徴規定されていることが、より文化的な概念としての天皇制度の本質に近いと、国民が感じているからだ。
近年では、日本共産党でさえも天皇の存在を認めざるを得なくなった。それはやはり、封建制の遺物と捉えるよりは、日本国民が馴染んでおり、権威の源泉としての文化的な立場を認めようとする視点があるからであろう。
たとえば、昭和天皇の崩御と、その是非はともかく戦前の歴史の経験者が少なくなりつつある時代状況、戦後の労働運動・学生運動の衰退などによって、「天皇制廃止」論は、現実味を持たなくなってきている。だからといって天皇制度を認めない人々が一切いなくなったというわけではない。私自身、さまざまな立場から天皇制度を否定する意見があってもいいと思っている。おそらく「人民新聞」は、そうした立場をとっており、読者もまた同様の意見と視点に立っているのではないかと思う。
そこで、現在大きな問題になっている「皇室典範改悪問題」で、本紙に掲載された二つの意見に対して、私の立場を述べたい。
昨年の本紙一一月二五日号で山村千恵子氏は、「直系の血筋が途絶えた」ことを「皇統が途絶えた」と規定しておられるが、「男系」継承の原則は一度たりとも途絶えておらず、そもそもの出発点から誤った歴史認識をお持ちのようだ。
天皇の正統性の原理とは、連綿と「男系」継承がなされてきた点にこそある。これは世界に比類なき我が国の皇統史である。山村氏は、旧宮家の子孫である竹田恒泰氏の「例えば、世界最古の木造建築の法隆寺が老朽化したからといってコンクリートで固めては意味がない。一番重要な伝統を変えては、もはや皇室ではない」との発言を捉え、いささか感情的と思われる反論を述べているが、「男系」を貫いてきた部分にこそ正統性の原理が存在する以上、「男系」継承を前面に押し出すのは当然ではないだろうか。
また氏は、象徴天皇という伝統や文化は六〇年前までなかったと述べているが、実際のところ、武士の台頭によって、平安末期から鎌倉にかけ、すでに天皇とは、権威の源泉としての存在と位置づけられ、およそ七百年間にわたって続いた武家政治では「象徴」としての立場を守ってこられた。明治から昭和にかけて、軍服を着ていた時代のほうがむしろはるかに珍しいのではないか。
「皇室典範改悪問題」で我々がしっかりと確認しておかなければならないのは、戦後の皇室が我々国民とそれまでより身近な存在となったとはいえ、我々国民では決して持ち得ない特別な役割をもたれているという事実である。私自身、現在の男女共同参画、男女同権の趣旨は承知しているし、男であれ女であれ同等だと考えている。しかしながら、この考え方をそのまま皇室に持ち込むのは、どうだろうか。繰り返すが、天皇の正統性は「男系」という皇統にこそ根拠がある。つまり、皇室と我々国民を同じ価値観で語ることはできないのである。もし歴代天皇が仮に「女系」を貫いてきたとしたなら、私は「女系」を支持する。決して男尊女卑的な発想から「男系」といっているのではない。あくまでも皇統を守れという立場であり、守る努力を続けようとするから価値が見出されるのである。
皇室の重みと意味軽んじた小泉首相
一方、本紙一二月一五日号では、深見史氏が、これまで我が国で天皇の「男系」継承を続けてこられた背景には、「歴代天皇の実に半数が『非嫡』の子、つまり『側室』の子であった」と述べ、さらに今後もその制度を維持するためには、「動物なみの多産、あるいは『妾』『側室制度』の存在」が不可欠だとしている。
歴史的にみると、たしかに深見氏の指摘は一面的には真実であろう。しかしながら重要なことは、そうしたさまざまな知恵をしぼってなお「男系」を貫いてきたという動かしがたい歴史的事実への評価の問題である。すなわちそれは、「男系」を守ることがいかに困難であったかを表すと同時に、何としても守らなければならない最重要課題であったことを指し示している。
「日本」という国民国家は、我々日本人が帰属し、支え、形成するものであるが、しかし現代に生きる日本人だけのものではない。長所も短所も、独自性も特長も、あらゆるものを包含して、我々のはるか昔の祖先から長らく受け継がれてきたものである。その中で育まれ、守られ、伝えられてきたものこそ「伝統」と呼ばれるものであろう。それを、我々現代人の価値観でたやすく覆してしまったり、深見氏が暗に匂わせているように消滅≠ウせてしまうというのは、いかがなものか。
私自身は、我が国の皇統を重んじる立場として、昭和二二年に皇籍を離脱させられた旧一一宮家の中から男系を活用するのも一つの方法だと考えている。また皇室典範第九条の「皇族の養子縁組を認めない」とされる条項を「男系男子に限って認める」と変更するようにも主張している。深見氏の言を借りれば、それは「姑息な改正」ということになろうが、私はそうは思わない。それは、繰り返すが、「男系」であることに意義があるからである。「姑息」ということでいえば、憲法第一条の「天皇の地位は国民の総意によって決まる」という条文を堂々と前面に出さず、あたかも男女差別の根源として展開しようとする捉え方のほうである。
さて、今年二月一七日付「産経新聞」によれば、小泉首相と有識者会議との間で、事前に「女帝・女系容認でいこう」という取り決めがなされていたという。連綿と続いてきた「男系」継承という歴史的事実があるにもかかわらず、小泉首相は「改革」を連呼するあまり、皇室の持つ重みと意味を軽んじ、自身の「成果」を上げることに囚われてしまっている。
ちなみに、「女系」容認の議論になると、よく持ち出されるのがヨーロッパの王室のあり方との比較である。だが、そもそも日本の皇室とヨーロッパ型の王室とでは存在の意義もしくは役割が決定的に異なっている。天皇には本質的な役割として「祭祀」としての立場がある。それを、いわば君主論的にヨーロッパ型王室と同列に語ることは、まったく意味をなし得ない。
「伝統」は、それを守り持続することに意味がある。否定するだけならば何事もたやすい。だが、一度失うと復活させるのには非常な労力と困難が伴う。このことに思いを馳せた上で、議論を展開していただければと思う。