[海外] パレスチナ/トランスファー(追放)政策なおも続行
6月6日 ICAHD(家屋破壊に反対するイスラエル人委員会)
東エルサレムのパレスチナ人家屋の破壊計画 翻訳/脇浜義明
エルサレム市は、旧市街近くの東エルサレム、シルワン村のエル・ブスタン地区の八八家屋(一〇〇〇人が居住)の取り壊し計画を発表した。取り壊し命令を出した市の都市計画局長ウリ・シトリートによれば、この地区はダビデ王の王国の史跡にあたり、ユダヤ民族にとって重要な文化的・歴史的場所なので、それを「昔の状態」に復元するため、というのである。
エルサレムでは一九六七年戦争以来最大のパレスチナ人家屋破壊になるこの作戦のコードネームは、「王冠のさくらんぼ」。最も古い家屋は一九四〇年代にまで遡るが、大半は一九八〇年代・九〇年代にシルワン村人の私有地に建てられた家である。すでに四〇家屋が取り壊し命令を受けている。
一九六七年以降、政府は、アラブ人地区東エルサレムの家の建っていない部分をすべて「グリーン・スペース」として区画分類、そこでの家屋建設を禁止してきた。さらにパレスチナ人は西エルサレムに入れないので、いつも住宅難であった。都市化に起因する住宅難ではなく、政治的に意図された住宅難である。
テディ・コレック市長のアラブ関係担当顧問で、ポスト一九六七年政策の主たる立案者であったアイル・チェシンは、その理由を、自著『分離すれども平等─イスラエルの東エルサレム政策の内幕』で次のように述べている。
「一九六七年、イスラエルは東エルサレムに関し二つの基本方針を採用した。第一はユダヤ人人口を早急に増やすこと。第二はアラブ人人口の伸びを抑え、すでに住んでいる者を他へ移転させること。このため東エルサレム住民の生活は悲惨なものとなった。
都市計画も非ユダヤ系住民人口の伸びを抑えるための支配のツールとなった。パレスチナ住民の権利はもちろん、住民としての基本的ニーズも意図的に無視する政策がとられた。家屋の新築を厳しく制限し、アラブ系人口が一九六七年の水準(二八・八%)を超えないようにした。そしてできるだけ多くのユダヤ人を東エルサレムに入れ、できるだけ多くのアラブ人を追い出すようにした。まさに数のゲームと呼べる政策であった。
都市計画局は、アラブ人地区を、住居があって人が住んでいる部分だけに限定し、隣接する空き地を「グリーン・スペース」(「アラブ人立ち入り禁止」の意味)とするか、将来ユダヤ人住宅建設計画が出てくるまで区画外地としてとっておいた。一九七〇年のコレック市長計画の中には、今日まで続いているイスラエルの住宅政策の原則が含まれている ― アラブ人所有地の没収、東エルサレムに大規模なユダヤ人地区の開発、アラブ人地区での開発制限など」
シトリート局長は、取り壊し命令の法的根拠として、「王家の谷」(彼はエル・ブスタン地区を「王家の谷」と命名)はイスラエル当局から「グリーン・スペース」と指定された地区だから、例えパレスチナ人所有の土地であっても、家を建てることはできないことをあげた。ヨルダン統治時代、エル・ブスタン地区では家屋建設は許されていた。イスラエルがエルサレムを占領して以来その基本計画が変えられたのであるが、国際法は、占領国が自国の法律や規則を占領地に押し付けることを禁じている。にもかかわらずシトリートは、「不法建築物」を厳しく取り締まれと市役人に命令、すでにパレスチナ人住民に対する法手続きを行ったと告げた。