[海外] いま、パレスチナでは
「停戦」めぐるメディアの偏向報道 (アラビック・メディア・インターネット・ネットワークより)
──レイ・ハナニア(パレスチナ系米国人 コラムニスト)
イスラエルとパレスチナの首脳が何度目かの停戦合意に調印、和平への扉を開いたとされる数日後、パレスチナ人がガザ回廊の違法入植地へ、ロケット砲を発射したというニュースが新聞や米国テレビを賑わした。右翼『エルサレム・ポスト』紙は言うまでもなく、世界の新聞が、イスラエルが自制して報復しなかったことを誉めそやした。野蛮なパレスチナ人に比べてイスラエル人がいかに文明的な民族であるかと誉めそやした。
いつものことだが、ユダヤ系米人過激団体から「反ユダヤ主義者」とレッテルを貼られるのを恐れてか、ほとんどのメディアは、パレスチナ人のロケット砲発射の前にイスラエル兵と入植者が銃とミサイルでパレスチナ人を攻撃した事実を報道しなかった。
世界の新聞で報道され、米の保守系ケーブル・テレビのトークショーで大々的に扱われたパレスチナ人のロケット砲撃で、イスラエル人は一人も死ななかった。しかし、イスラエルの攻撃では二人のパレスチナ人が死んだ。
二月一一日の入植地砲撃は、その二日前のイスラエル兵と入植者によるパレスチナ人襲撃への反撃として行われた。メディア、特に偏向が常態である米系メディアは、イスラエルが攻撃されると大騒動するが、パレスチナ人ムスリムやキリスト教徒が襲撃され殺害されても、何も起こらなかったことなのだ。パレスチナ人が二人死んだからといって、一々報道するほどのことはないのだ。その二人は暴力と縁のない一般民間人だった。それがどうしたというのだ?イスラエル人が死んだわけじゃないのだ。メディアの目的は、親イスラエル団体やパレスチナ過激派以上に狂信的な米の指導者の反発を招かないようにすることなのだ。
和平はイスラエル人だけが望んでいるのではない。パレスチナ人にとってはもっと重要である。ただ、暴力に反対し和平を語るパレスチナ人の声はメディアに載らないのに対し、イスラエル人の声は絶えず取材され報道されるのだ。 キャンパス・ウオッチやCAMERAやアメリカユダヤ人委員会のような過激団体が何を言おうと、和平というのは恣意的な概念ではない。和平は、五八年以上にわたって続いている紛争の解決から生まれる結果であって、その前提ではない。イスラエル人にとって和平とは、一九四八年に国を作るために奪い取った土地を確保し、そこで攻撃される心配なしに安全に暮らすことである。パレスチナ人にとって和平とは、正義と公正の実現である。公正というのは、イスラエルがどんどんパレスチナ人の土地を奪っていくのを止めることを意味する。信じられないことだが、イスラエル人はパレスチナの土地を奪っていないと思っているのだ。正義というのは、イスラエルがこの紛争を引き起こし、その後もますます事態を悪化させた責任の一端を認めるだけでなく、一九四八年そして一九六七年に、非ユダヤ系人口を減らすために、パレスチナ人モスレムやキリスト教徒を故郷から力ずくで追い出したことを認めることを意味する。
紛争解決のためには妥協が必要であるが、妥協とは両者の譲り合いで、この譲り合いは公平でなければならない。 偏向アメリカ・メディアが知ったかぶりして一方的報道を繰り返しても、パレスチナ人はイスラエル人と同様の権利をもっているのだ。その当たり前の事実が認められるまで、いくら多くのパレスチナ指導者とイスラエル指導者が風光明媚なリゾート地で会談し握手しようとも、暴力はなくならないだろう。