[コラム] バリアのない街第3回/子供の数だけを問題にする貧困な「少子化」議論
──遥矢当(はやと)
「少子化」の問題は時として「高齢社会」の問題と併記されて、あたかも同列の問題として採り上げられる事が多い。筆者としては、問題として全く別な要因を持つ両者が、同時進行で議論される事に強い疑念を覚え納得が行かない。更に言えば筆者自身、言わば結婚適齢期とされる第二次ベビーブーム世代(七三年を中心)でもある。もちろん日頃は介護を生業とするが、仕事上研修などで並列されるが故に触れる機会も多く、思うところもあり、今回は敢えて採り上げる事とした。
高齢社会の問題は、少子化の問題を近来の年金問題を始め高齢者の社会保障の維持に必要な「分母」が保てないが為だけに、議論の渦中へと引き摺りだしてしまう。新生児の減少がイコールで社会保障改革の口実になるなら、短絡的で看過出来ない。要は次世代へ責任を転嫁し先送りしたいだけである。過去に対する反省の態度がまるで見られず、数字の辻褄ばかりに気を取られる昨今の「社会保障改革」とやらによって、我々は益々取り返しのつかない世界へと誘われそうだ。
出会いを生めない社会
新しい世代は生物学的に言っても「出会い」が無いと生まれない。調べたところ一九六〇年から一九八〇年までの間で男性の五〇歳時未婚率は一・二六から二・六〇%へと倍増している(内閣府統計=九六年)。これは戦後日本社会とは、元来より出会いを生めない社会だったと言って良いだろう。そして現在では、第二次ベビーブーム世代が、未婚率が比較的高いという理由だけで少子化の要因として注目が集まってしまう。いわば出会いの無い少子化は、昨今突然に始まった訳ではない。出産と生育を特定の世代にだけ半ば強制的に課す偏狭な発想は、筆者がこの世代を代表して述べれば、至極論外な事だと言いたい。即ち政治が憲法で謳う「健康で文化的な最低限の生活」とやらを国民に保障しなかったと言う事だ。ならば人々に自然な出会いが得られる社会とは、環境を重んじ生命が尊ばれる社会であろう。環境が荒廃し物質的にも脅かされるならば、人々に建設的な発想は生まれない。
出会いがストレスとなった世代
逆にバブル経済崩壊以降、九〇年代で社会に対し、厭世的な人々の間で生まれた物の一つに、「出会い」に関するストレスを挙げたい。例えば「出会い系」「援助交際」「性病の蔓延」といった犯罪や病気は、その代表ではないだろうか?
戦後六〇年目の本年、人口の増大を通じ、拡大再生産を繰り返したこの国は、少子化を通じても改めて禍根を残している事を痛感すべきなのだと思う。戦後において近隣諸国へ与えた惨禍を無視し、自身の復興にばかり気を取られてきたが故の隘路を今見ている。そこでは生命の誕生という、人間としてドラマティックな瞬間を男と女に与える時間は無かった。社会が存在する生命の尊さを実感させないのであれば、少子化の問題は当然無視される物なのだろう。倫理観に乏しく体制を強くする事ばかり求めた社会は、無残な経済の収斂の前に人間相互の「共生」を見失ってはいないだろうか。筆者が望むのは生まれた子供の数を誇る事以上に、生命を育む全ての人々が必要とされて零れ落ちない社会である。