[コラム] 脱暴力を呼びかける第22回 怒鳴らず、無視せずに子どもと向き合うエネルギー
──「男のための脱暴力グループ」 水野阿修羅
どなる大人と無視する大人
子どもに対して、命令する──どなる親と、何もいわない──無視する親がいる。学校現場でも、どなる教師と、何もいわない教師と、大きく二極分化しているという。それなりに子どもに話しかける教師もいるのだが、子どもが無視するのだそうだ。
「子どもを束縛したくないし、強制もしたくない」と思っている親や教師は、子どもへの声かけをためらう。良かれと思って言ったことが、子どもの反発を受けた時、「強制」だったのかと思ってしまうと、物が言えなくなるのだろう。
子どもにすれば、大人から何も言ってもらえないのは、「無視」されたように感じる。
私は高校時代、非常勤講師の授業で、講師が何をしても怒らないので、みんなで授業をボイコットして、野球しに行ったという経験がある。その私が、高校生にワークショップをすることになり、四〇人ほどの高校生を、一人で相手することになった。
いつものように、「あいこジャンケン」で始めようとして、「さあ、やってください」と言ったのだが、誰もやってくれない。みんな友だち同士でしゃべっているか、無表情な顔で無視しているかである。
私はパニックになった。一瞬の間に頭にひらめいたのは「どなるか?無視するか?」だった。しかし、主催者からのワークショップの依頼を考えると、子どもを無視して一方的にしゃべるのでは、「講義」になってしまう。では、どなって言うことをきかせるか?それをしたら、自分が批判してきた教師と同じレベルになってしまう。とっさには判断がつかなかった。
意見を聞き出すことの難しさ
ワークショップの原則は、「参加者中心」である。「参加者の声を聞く」ことが進行役である私の役目だ、と思えてならなかった。
そこで私は、私の正面で輪になって座っている、一番態度の大きそうな、男三人組に声をかけた。「何でせえへんの?」と。
彼らもびっくりしたらしく、誰も答えない。だけど、教室を出て行くこともしない。私は自分の席に戻り、ワークを進行した。すると、先ほどの三人がワークのゲームに参加してきた。
「参加者に聞く」という原則の下、ゲームをするたびに、私は参加者の声を聞く。ところが、発言者の意見をみんなが聞いていない。勝手に友だち同士でしゃべっている。ここでも、「どなるまい」と思った私は、発言者の前にいって、一対一で発言者の意見を聞いた。むろん、みんなは勝手にしゃべっているのだが。
すると、私一人しか聞いていなくても、しゃべらない、答えない人がいなくなった。
最初に聞いた時、何も答えなかった子らも、一対一ならしゃべってくれた。
ああ、そうか。彼らは、私が無視するのかどなるのか、私を試していたんだと思った。それによって、どう対応するか決めようと。彼らが接してきた先生や大人は、どなるか無視するか、どちらかしかなかったのではないかと。
高校生に授業をするチャンスがよくあるが、こういうことは多い。どならず、無視せず彼らと向きあうには、こちらもエネルギーを必要とする。私にエネルギーのないときは、一方的にしゃべって、講義して、ごまかしている私がいる。特に、もの言わぬ学生にしゃべらせるのは難しい。
どなる(命令する)ことをせず、無視することもせず、子どもに対応することの難しさ。「聞き出す」ことの難しさを痛感している。(つづく)