[コラム] 権力の監視・強制から自主性を取り戻せ
街に寄り添う者の「逃げ場」を奪う「歌舞伎町掃討作戦」
目を閉じて広がる暗闇の中、新宿歌舞伎町を歩く事が出来るか?試しにやってみるといい。風景が完全に奪われた中で、日本最大の歓楽街に向うのだ。駅から階段を上がってスクランブル交差点を経て、靖国通りを横断歩道で超えてたどり着く。不安を誘う激しい交通量と雑多な人々…。
全く想像し難いだろうが、これでも街は「かつてよりは皆が歩きやすく」と、元来持つ魅力を犠牲に、「安全性」とやらを実現させてきたのだから。
ここ最近、「福祉住環境」という言葉が多く聞かれるようになった。他者とのコミュニケーションを遮るあらゆるバリア=壁を崩す事だ。
永年住み慣れた自分の家とその周囲の環境で、高齢者や障害者が、改修や機器の補充を通じて以前と同じ生活を送る事が出来るのは素晴らしい事である。さらに街に出ても、点字ブロックや音の出る信号やスイッチ、車椅子の利用者の往来が容易な通路の整備と、街の風景が変わる度にバリアは減っている。
しかし、人々の往来を遮る街のバリアを崩し、その治安を確保するという口実を以って、街に寄り添う者達の「逃げ場」を奪わんとする認めがたい施策が始まった。石原慎太郎都知事による、風俗店を対象とした「歌舞伎町掃討作戦」の事である。
高齢者や障害者にとって、バリアとは物理的や環境的な物だけではない。この事を踏まえない半可通の「俄かコーディネーター」により、今は逆に、もっとバリアが厚くなってきている気がする。
身体的にはもとより、時として社会的にも自由を奪われた者の前に立つ厚いそれは、彼らの持つ社会的疎外感を増大し始めた。人が「何故バリアを崩すか?」と問うなら、行き着く答えは「人との出会い」と言える。
人間の欲求を奪い去る街に文化は生まれない
街は、人が集まると言う意味で、誰もが思いつく場所でもある。その永い歴史の中で、為政者の意向など構うことなく、寄り添う者達を受け入れる土壌も整えて来た。例えば新五〇〇〇円札に登場した作家・樋口一葉が作品に記した某風俗グループなどは、優に一〇〇年を越す歴史を持ち、店内随所ではいわゆる段差が殆ど見られない。更に、勤める従業員や所属女性による介助技術の高さも知られている。彼らは人との出会い、そして他者と触れ合う事がいかに尊いかを、誰よりも理解して来た。
けだし人は、生が続く限り欲求を果たさんとする生き物である。一葉もその賑わいを記し残したのは、そこに街の持つ時の流れから普遍性を見出せるからだったに違いない。
街に集まる者全てが君子然とした世界に、果たしてどれだけの秩序と文化が生まれてくるであろうか。四角四面の世界では、犯罪が地下に潜り、悪質化する。それは市井の人が眺めてそれとは判別しにくい状況である。高齢者や障害者にとって、外出する機会はやはり一般の人に較べて少ない。
街に期待する人々へ「生の実感」を与えるどころか奪うのであれば、文化的な閉塞と退廃を推し進めるだけである。もちろん、我々は法や権力による監視や強制から、喧騒の中に保たれるべき自主性を取り戻すべきだ。筆者は欲望の「秩序ある」混沌に対する、東京都の政策並びに都市の文化を摘み取る行為へ改めて異を唱えたい。寄り添う者の逃げ場を奪う行為に、根を確り下ろした福祉は育たない。